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 競売場は異様な空気に包まれていた。  洋画家、溝口望(みぞぐちのぞみ)が没して四月(よつき)。今しも遺族が全作品を手ばなそうとしている。 「一億一千万」  決済の槌が鳴り、またひとつ、美の換金がなされた。  溝口望は理想を全(まっと)うした芸術家である。地主の家に生まれ、若くして、かなりの相続をした。作品総数、わずかに十二点、そのすべてが自己所有。収集家垂涎(すいぜん)の、今はじめて入手できる溝口の絵。場内の緊迫は増していく。  会場に紛れ込んでいるマスコミの関心は早くも定まってきている。これまでの六枚を同じ人物、猿に似た黒縁眼鏡が落としたからである。64番札を持つメガネ猿と競っているのは8番、75番の二者のみという状況も明白となってきた。  8番札は創立百周年に美術館をつくりたい太平洋生命とメインバンク帝都銀行のペア、75番はアジア企業誘致のため、東洋文化会館創設をもくろむ南欧州連合、そしてメガネ猿が海運王、堀部(ほりべ)芳信(よしのぶ)のYHホールディングスの代理人なのだった。通常、競売にはこの三者のように代理人が出席する。だが今日ばかりは有名画廊のオーナークラスが勢揃い。海運王の堀部もまた、ひそかに来場していた。
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