0人が本棚に入れています
本棚に追加
編集長が店に戻ると、他の客は皆帰ってしまい、隅のテーブル席にいるはずのカメラマンが、なぜかカウンター席の真ん中に座っていた。カメラマンはすっかり眠り込んでいる様子で、深くうつむいたまま微動だにしない。
(なにやってんだバカ!)
白髪を短く刈り込んだ、いかつい顔付きの亭主は、背を向けて流しでジャブジャブ洗い物をしている。編集長はカメラマンの隣に腰かけ、耳元に囁きかけた。
「何で席を移った! これじゃ話ができないじゃないか!」
カメラマンは両目を剥き、口を大きく開き、瞬きも呼吸もしていなかった。横顔も耳も首筋も、鳩尾の前に祈るように組んだ両手も異様に白い。その白い両手と鳩尾あたりが、口から滴った唾液でひどく汚れている。
編集長の腰から両脚にかけてむず痒い痺れが走り、鼓動が一秒ばかり止まった。
「今度は何呑みます?」
亭主は顔に似合わぬキーの高い声でそう言いながら両手を布巾で拭い、カウンターに向き直った。
テーブル席から盗み撮りしていた時には大男に見えたが、実際は小柄な男だった。
「死んでる!」
「そうですか、死んでいますか」
亭主はつまらなそうにそう言うと、小さく溜息をついた。そして、極北の原野を明け方に吹き渡る風のように冷たい口調でこう続けた。
「お前たちが何者か、何をしにきたのか、俺はよく知っている。お前たちがあの隅で俺を隠し撮りしながら何を話していたか、俺はすっかり聞いている。そしてお前が何のために店を出たか、その理由も知っている……なるほど、ネットの件は迂闊だった。それは認めよう。あらゆるサイトにこの店の情報を掲載させない。あらゆるSNSから、この店を褒める書き込みも、貶す書き込みも削除する。それでもしつこく情報の掲載や書き込みを続けるサイトやSNSアカウントは、技術的トラブルを理由に閲覧不能にする。コンプライアンス違反を理由に閉鎖する。それでも懲りない奴は、ちょっとした “事故”に遭ってもらう。さらに、外国人観光客をこの界隈から遠ざけるため各国語のサイトに、この辺りの治安状況が悪く、見所もないといったマイナス情報を広く掲載させる……これまでディスインフォメーション工作を慎重に行ってきたつもりだったが、さすが天下の“文春砲”だ。褒めてやろう」
最初のコメントを投稿しよう!