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私も慌てて靴を脱ぎ、リビングへ向かう彼の後を追う。互いから滴る雫が、蛞蝓の這った痕みたいにスローリングを濡らした。そしてリビングの真ん中で立ち尽くす彼の男らしく分厚い腕をとり、改めて問いかけた。
「あなたは、何をしにここへ来たのですか」
訊ねれば彼はやっと私の瞳を覗き込み、小さく口を開いた。
「ああ、さあ、分からない。ただ、歩いてたらあんたの姿が見えたから」
そこから彼は口を閉ざし、私の手を振り払うこともなく呆然と突っ立っていた。彼の態度に、私は余計に途方に暮れるほかない。私の歩く姿が見えたから勝手に家に押し入るだなんて、そんなの理由になり得るだろうか、なるはずもない。彼の理屈はあまりに理解しがたいものだった。しかし悪びれる素振りも困っている様子も見受けられず、当たり前のように私の目の前に静かに佇んでいた。さもそれが当然だと言いたげに。
「本当に、それだけの理由で来たんですか。例えば私に、何か用があるとか」
「用なんて別に、何もない」
そうですか、としか答えられず、念のためもう一度同じ質問を投げかけ、そして彼もまた同じ返事をした。どれだけ続けてもこの攻防に果てはない。やはり今日の私はついていなかったのだ。彼の腕をとっていた手を放し、代わりに自らの頭を抱えた。しかし状況は何も好転しない。
「とにかく、何か拭くものを持ってきます。風邪をひかれても困りますから」
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