8 そっけない看板

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 嬉しかったんだ。ものすごく嬉しくて、もう俺にできることならなんでもしてあげたいって思ったんだ。丁寧に、丁寧に自分が描いたものをようやく本当の意味で大事に見てくれた人だったから。俺が望んでいた受け取り方をしてくれた人だから、俺もそんな一誠にお礼がしたいって思った。ケーキ屋の看板なら百枚でも二百枚でも描いてあげるよって。俺にはそのくらいしかできそうにないからさ。  得意なものって言ったら、絵くらい。料理とかもしないし、ケーキを作れる一誠に手料理でお返しっていうのはなかなか勇気がいる。何かプレゼントをするって言っても遠慮される気がした。だから、絵で返そうって。  俺の絵を気に入ってくれたことがたまらなく嬉しくて。その人のために何かしたいって思ったから。だから、一誠も、あのお客さんに対してそうなのかな。自分が感じてる嬉しさを、あのお客さんに持っているのかなって思ったんだ。そしたら急に胸の辺りがぎゅっと締め付けられた。  本当にすごく嬉しくて、たまらなかったから。  別に、一誠のことが嫌いに……なったわけじゃ。 「……」  看板が出ていた。黒板がちょこっとだけ歩道のところに顔を覗かせている。一誠は絵がめちゃくちゃ下手だけど何を描いてるんだろう、ってことも、この一週間で色々想像してた。ドーナッツならふたつの円を描けばまだどうにかなるし。マカロンならそれこそ丸ひとつで事足りる。どんなお菓子をそこに描いてるんだろうって。 『甘いココア、あります』  ただ、その一文が、深緑色の黒板に白いチョークで書かれてた。絵じゃなくて文字で。とても綺麗な文字。これが一誠の文字なんだ。しっかり跳ねて曲がって止まって。真っ直ぐさが心地良い、一誠らしい字。 「っぷ」  これじゃ、お客来ないじゃん。ココアありますって、そんな、いくら達筆だってさ。これじゃ、まるで俺だけを呼んでいる看板じゃん。  つい笑ってしまった。一番短い文章なのに。ぎゅうぎゅうに気持ちが込められた文字。その文字に手が自然と伸びた。
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