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「あ……」
久子は両手で口元を覆った。姉の顔を見て昌宏はようやく呆然自失の状態から立ち直った。
「姉ちゃん、義兄さんだよ。義兄さんが戻ってきたよ」
久子はよろめきながら歩を進める。
「あなた……」
崩れるように膝をついて茂の頬に指を伸ばした。
「亜衣ちゃんを」
昌宏の袖を引いてさやかが囁く。慌てて御供部屋に走り昌宏は亜衣を抱いてきた。
亜衣はまだ半分寝入っているようだったが、父親の顔を見ると不思議そうに首を傾げ、その小さな手を彼の頬に触れさせた。
「ぱぱ。ぱーぱ」
茂はゆっくりと、その目を開けた。小刻みに瞬きを繰り返しながら瞳を見開く。
「亜衣……久子……」
にじり寄った妻子の顔を見出して、彼はひどく掠れた声でつぶやいた。
「あなた」
瞳から涙がこぼれた。久子は低い嗚咽をもらして泣き出した。
気がつくと、彼は市街地へと続く幹線道路の脇に寝転がっていた。
「なんだ、どうなってるんだ?」
彼には訳がわからなかった。あたりには濃い霧が立ち込め、まだ早い時間帯のせいか車は一台も通らない。道路標識を見て大体の場所は呑み込んだもののこれではどうにもならない。
それにしても自分はなぜこんなところにいるのだろうか。あれから何が起こったのか。
高遠はぶるっと体を震わせた。早朝の冴えた空気が彼の体を冷やしていく。こんな場所にいつまでも蹲っているわけにはいかなかった。仕方なく徒歩で町まで向かおうと立ち上がった。が、ふと視界の隅をかすめたものに高遠は悲鳴をあげた。
「ひ……」
驚いて尻もちをつく。
「な、な……」
そこに、翁の面が浮いていた。ぽっかりと、中空に、面が、浮いていた。
「痴れ者が」
錯乱している高遠に向け、翁が言った。
「はや立ち去れ」
「そして二度と立ち入るな」
「村での出来事を口外すれば只ではすむまいぞ」
「忘れるな」
「話せばそのときは」
「おぬしがどこにいようと我は」
「懲らしめに参ろうぞ」
「忘れるな」
「忘れるな」
「うわああああ!」
高遠は脇目もふらずに走り出し、あっという間に姿を消した。
「……」
翁面の背後の草むらが揺れた。
「効果覿面だな」
浮かばせていた面を手の中に落とし、司は小さく微笑した。
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