2 こんにちは、さくら

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 妻は妊娠が分かったとき、すっぱりと仕事を辞める決意をした。それがあまりに潔かったので、私はこう聞いたものだった。 「なにも辞めなくていいんじゃないのかい? 僕は会社勤めをしないから分からないけれども、育児休暇とかそういうのがあるだろう」  そのとき私たちは、台所のキッチンに向かい合っていた。食卓の上には明石の〈ひっぱりだこ飯〉があった。のぞみは大体いつもお土産に、全国の駅弁を持って帰ってきてくれるのだった。  電子レンジで暖めたので、陶器でできた壷みたいな容器からは、ほかほかと湯気が上がっていた。のぞみはお箸を器用に使って、まず炊き込みご飯の上に載った、しいたけを摘みながら言った。 「だめよ。育休なんてとったら、復帰したときとても追いつけなくなるわ。私のあとに入った子にしても、まだ三百キロちょっとでしか走れないでしょうけど、これからどんどん若い子が入ってくるもの。おばさんが帰ってきたなんて言われたくないじゃない」 「そんなことは言われないよ」  夫の私が言うのもなんだけれども、彼女はまだまだ美しかった。秀でた額と鼻のアーチは健在だったし、身体のラインはまったく崩れていなく、肌艶だって光沢があり、しわ一つ見当たらなかった。 それに聞くところによると、仕事だってよくできたそうだ。その証拠にどこかから、二つも表彰を受けているらしい。でもそれが何という賞で、どういった賞なのかは知らない。夫というものは無意識に、妻の功績を認めたがらないものなのかもしれない。
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