1人が本棚に入れています
本棚に追加
「どっちにしても今はまだ、目の前のことで頭がいっぱいだわ」
と、のぞみは壷の中へお箸を突っ込んで、しばらく掘り進んだあと壺の底からタコ焼きを掴みだした。これがこの駅弁の売りなのである。
ごはんの底に昧もれていた為、ほっこりと蒸された丸い塊を、のぞみはしばらく眺めてから、口の中へ放り込んだ。その様子を眺めながら、私は快活に言った。
「けれども僕は嬉しいな。今までは君はみんなのアイドルだったけれども、これからは僕だけのものになるんだから」
「期間限定でね」
のぞみは微笑を浮かべた。そうして自分のお腹をさすった。さっきのタコ焼きに比べると、まだまだ平らなままだった。
「もうじきこの子のための〝のぞみ〟になるわ」
子供の名前は決めていた。やがて彼女は〈さくら〉と呼ばれ、きっと母親と同じように、皆に愛される存在になるだろう。私たちは女の子が欲しかったのだ。
「なにかお祝いをしなきゃね」
私が何気なしにそう言うと、のぞみはしばらく考えたあと、思いがけないことを聞いてきた。
「それは、何のお祝い?」
こんどはこっちが考えた。
「ええと、出産祝いかな。でもまだ生まれていないし、懐妊祝いなんてあったかな。退職祝いっていうのもなにか変だし、かといって寿退社でもあるまいし」
しどろもどろになった私に、のぞみはきっぱりとこう言った。
「結婚祝いがまだよ」
そうなのだ。私たちは新婚旅行というものをしていない。なにしろ代わりなんていないから、のぞみは年中無休で働いてきたのだ。
「そりゃあいい」
私は一も二もなく賛成した。
「君は今まで、人を旅に連れていくばかりだったからね。いちど自分を旅に連れていってあげる必要があるよ」
「そういうものかしら」
のぞみはしれっとしといる。
こうして私たち夫婦にとって、数年遅れの新婚旅行が決まった。さらにその旅は、私が初めて妻に乗ったという、記念すべきものにもなったのであった。
最初のコメントを投稿しよう!