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「君に、結婚を前提にした付き合いを申し込みます」
いかにもエグゼクティブなαが好んで利用しそうな一流ホテルの最上階レストランで、一流のコックが作った一流料理を目の前に、俺は十年来の付き合いになる直属の上司から、ありえない申し込みをされていた。
「……今日は四月一日、エイプリルフールではありませんが」
「私は、嘘は嫌いです」
「ですね」
貴方はいつだって騙す側じゃなく騙される側ですもんね。
喉元まで出かかったツッコミを辛うじてごくんと飲み込むことに成功した俺は、未練がましくご馳走が並んだテーブルに視線を落とした。
――告白するなら、せめて食事の後にして欲しかった。
というのが、この時の俺の偽らざる心境であった。
(エサで釣ろうとしてるな、この人)
伊達に長年付き合っていない。
互いの弱いところなどすでに知り尽くしている。俺は食い意地がはっている性質だ。貧乏性ともいう。
そしてこの上司は――、そんな俺の勿体ない精神を完全に把握していた。
しかし、俺はぎりぎりのところで上司のあざとい誘惑に耐え抜くと、
「お断りします」
きっぱりと言い切り、席を立つ。さらばシャトーブリアンよ、と詩人のように嘆きつつ、部下の攻略失敗に固まった上司を残し、悲劇のヒロインさながらにその場から脱兎のごとく逃げ出した。
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