ウンディーネの溺愛

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 三ヶ月ほど前、髪の一部が抜けて五百円玉サイズの穴が開いた。強烈なストレスがかかったせいで脱毛したのだと診断を下される。それを見て、柚原はまたしばらく落ち込んでいた。抜け続ける間は唯一の取り柄であるルックスの低下は心配だったが、治まってから伸びはじめるのは早かったので安心する。  元気づけようと、遠野が鍵盤に両手を置いて広げると、また遠野の手を握る。閉じたり開いたりしながら、指で指を触り掌を掴む。 「そんなに好き?」 「うん、とっても」  人差し指の関節をきゅっと握ると、そのまま持ち上げて口付ける。柔らかな感触に気を良くして抱き寄せるとそのまま肩に凭れた。  それはごく単純な話だった。ピアノと離れたのは傍にいるため、弾き始めたのも傍にいるため。  金の話もそういえば色々していたが、忙しい学業の合間に柚原に仕事を詰め込ませて、自分は翻訳程度しかしないというのも、格好が悪いという程度の理由で、たいした意味はない。料理のレシピも尽きていたし、評判のいいレストランで味を盗むのも一石二鳥だと思った。その店の昼間の奏者は本当に下手くそだったからそう言ったまでのことだ。後に柚原が友達とバイトをしたいというようなことを言っていたから、治安もよく、客層も申し分ないその店をキープしておこうと考えたのも事実だが、その店で働かせるならプロオケにバイトで入った方が将来の為になるだろう。  どこが良いのかは相変わらず不明だが、この手がお気に入りならそれもいい。  まだ思うようには動かない。下手だった三年前より更にひどい。しかし、覚悟を決めるしかない。お望みどおりにして差し上げようと思う。だってこれはたぶん、ピアノを弾くためのものじゃない。柚原を支え可愛がるためにある。  不意に肩の柚原が重くなる。目を閉じて寝息を立てはじめる。  安心しきった美しい音楽家を生涯の伴奏者はただ眺めていた。 end 2017/10/17
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