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ウンディーネの渇望 1
六歳の夏に母が吹いていた曲が何であるか未だにわからない。吹いて宇佐美に聴いてもらえばわかるのかもしれないけれど、音にするのは恐ろしい。
最期の数日間、彼女は何も食べず、何も飲まず、ウロウロと家の中を所在無げに歩き回ったり、毛布を頭からかぶってうなり声を上げたりしていた。幼い柚原は母から見えない場所に隠れていた。目が合うのがとても怖かった。深く暗く冷たい水の底へ引きずりこまれるような気がしたからだ。
彼女は唐突に金色の笛を吹き始めた。おそろしく不安定で陰鬱なメロディが長々と
続き、身体が二つに裂かれるような苦しい波が来る。それは渦となって全てのものを飲み込み、水沫となり消え去る。メロディは柚原の身体の中をぐちゃぐちゃにかき回し、頭を何度も殴りつけるようにして破壊する。全てがばらばらになった感覚の後で、かけらも残らないように根こそぎ水の底へ沈められる。目も見えず、匂いもなく、空腹感も痛みも全ての感覚を失って頭の中で音楽だけが鳴り続ける。音楽は叫ぶ。どうしてなのどうしてなのどうしてなの。それだけを繰り返す。
柚原はたまらなく怖しかった。しかし、耳を塞ぐことはできなかった。それが彼女とできる最期の会話になるとわかっていたからだ。
深夜にインターフォンが鳴らされ、玄関のドアが乱暴に叩かれる。それでも音楽は止まらなかった。警察が踏み込んできて、暴れる母から楽器を取り上げるのを見たとき、彼女とはもう二度と会えないと思った。
取り押さえられた彼女が膝を折ると目が合った。柚原を認識してさえいなかった。
少し首を傾けて、柚原に何かを差し出す。柚原が掌を広げると、誰の目にも見えない雫が落とされた。存在しないそれは、握り締めた手の中で、温かく、冷たく、悲しく、嬉しく様々に変化する。母が見せた強い衝動は、自分自身の中にもあるのかもしれない。それはひどく恐ろしいことだと、柚原の記憶に刻まれた。
のちに柚原はあの日彼女が落として言った雫を、心と呼んだ。
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