海へ

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 ゆっくり、ゆっくり、坂道を下っていった。時折若い声と共に自転車が凄まじい速さで追い越して行った。地元の学生だろうか、でも、気を払うことができないほど私は私の暑さにやられていた。帰りにまたこの坂を上ることを考えると億劫だ。坂道を上る帰りはいつだって、寂しかったり、切なかったり、恋しかったりする気持ちでいっぱいになっている。  しかし下る今は、晴れやかだ。もう少しで幸太郎がオーナーをつとめるレストランに辿り着けるから。  すると、遠くの方に人影を見つけた。  黄色く濁った可愛らしい家の直ぐそばで、こちらに向きボウっと突っ立っている。その姿を見つけた途端、心に嬉しい気持ちが一瞬で広がって、一目散に走り出したい気持ちが湧いた。押し込めて、手を振る。  近づけば分かるシルエット。幸太郎だった。夏だから軽やかな服装で、白いシャツに黒いズボン、両手ともポケットに突っ込んだまま、手を振り返すことなくタバコをふかしていた。二人見つめ合っている。鮮やかに染まった水色の空も、白く光ることを繰り返す海も、目に入らないくらい、私は幸太郎ただ一人を見ている。  私はもう十五歳ではない、二十三の大人だった。きっと幸太郎からしたらいつまでも子供みたいなのだろう。けれど、これでも、女性らしく優雅に居たいと思ってる。だから昔みたいに駈け出さずに、ようやっと、幸太郎の直ぐ近くまで来て「久しぶり」とにこやかに言ったのに、やっぱり幸太郎は私の頭を子供を相手にするみたいに撫でて、「元気だったか」 「うん」  私の瞬間、解けた。たちまち幼い気持ちが蘇る。幸太郎の手が、嬉しくて、たまらなかったのだ。 「荷物はこれだけか」 「だって一泊しかしないもん」 「ふぅん」 「幸太郎、寂しいの?」 「なぎさ」 「うん?」 「結婚おめでとう」  幸太郎が元々細い目を更に細くさせた。目元にシワが寄ったのが見て取れた。いつだってこの人は、真顔でぼんやりとしていることが得意で、決して笑顔を振りまくような人間ではなく、細い目つきがたまに人に恐れられていた。  でも本当はよく笑う人間だということを知っている。その証拠に、目尻のシワはとても濃く、くっきりとしていた。幸福の印である細い線をなぞりたい衝動に駆られながら、私も同じように微笑んで言った。 「ありがとう、幸太郎」
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