十二月の始めに

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 稔と京子の結婚記念日はそのまま二人の出会った日で、今年で五十周年になる。まだ女学生だった京子に一目惚れした稔が偶然を装って本屋で声を掛けたのがきっかけだった。今その本屋はもう存在していない。二人が初めてデートで行った喫茶店も映画館も数年前にショッピングモールに変わっていた。  朝食に少し遅れて現れた稔は、ご飯を盛る京子がいつもよりもしっかり化粧をしていることに気が付いた。その後にいつもは先に食べて仕事に行ってしまう長男が食卓を共にしていることに気が付き、今日が日曜日だったことに気が付いた。 「おばあちゃん今日買い物に行くんだって」  隣に座る孫がそう教えてくれた。ほう、と関心のない振りをしながら卵焼きを口に運ぶ。 「ショッピングモールに行くのか?」ようやく聞けたのは食事も終盤に差し掛かった頃だった。 「ええ、そろそろ寒くなって来たのでなにか羽織るものを買おうと思いまして」  京子は目を合わせずに答えた。味噌汁に箸をつける。 「一緒に行ってやろうか?」 「大丈夫ですよ、なにか必要なものがあれば買ってきますから」 「いいだろう? たまには街の空気も吸いたいんだ」 「じゃあ俺車出そうか?」  長男が手を挙げながら言った。「どうせ暇だし、お前も行く?」長男がポンと肩を叩くと嫁はこくりと頷いた。「家のこと任せていいなら」と次男の嫁に伺うと彼女は「全然いいですよ」と軽く答えた。  孫達は観たいテレビ番組があるらしく長男の運転する車に乗り込んだのは四人だけだった。助手席に座る稔の後ろで女性二人が早くも会話に花を咲かせている。それに聞き耳を立てながら稔は車窓から外の景色を見ていた。稔の散歩コースを早々に通過し、前方に田んぼが見えてきた。稔の父親が亡くなるまで耕していた田んぼだ。稔も会社を立ち上げるまで田植えと稲刈りを手伝っていたが、今では人の手に渡っている。 「懐かしいね、父さん」  稔の追想を見抜いたかのように長男が言う。彼もまた幼い頃には稔とその父を手伝っていた。「そうだな」畦塗りされた田んぼを見ながら稔が答える。この景色もこんな会話もこれで最後になる、そんな風に考えるのは良くないとは思いつつも気を抜くとついそういうことを考えてしまう。そんな稔の胸中をつゆ知らず、後部座席からは大きな笑い声が起こった。
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