東京難民

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埼玉県さいたま市見沼区。 諏訪学園 さいたま諏訪女子中等部。 ホームルームの時間を迎え、昨年春に板橋区から赴任した甲本涼平教諭は、鏡に映る自分の顔を見てため息をついた。目の下にはクマが出来て、白髪も僅かながらに目立ち始めている。 28歳という実年齢にそぐわない老け込んだ顔に、冷たい水を浴びせてハンドタオルで拭う。 幾分か気持ちは和らいだものの、責務という名のプレッシャーが再び襲いかかる。 慌てて個室に入り、嘔吐を繰り返しているさ中にチャイムが鳴り響いた。 甲本が教師になったのは、安定した職業に就きたかっただけで、そこには理想も野心も無い。 普通に生活出来たらそれだけで良かったのだ。 しかし、教師という職業は想像以上の残業と、教育委員会やPTAからの重圧の連鎖地獄だった。 そんな時、ある保護者からの訴えが学校に届いた。 その生徒は、甲本のクラスのおとなしい生徒で、東京事象の難を逃れて北区から転校して来たばかりだった。 『うちの娘はイジメにあっている』 数日前の3者面談で母親は泣いていた。 生徒は言葉を選びながら、ゆっくりと時間をかけて話をしてくれた。 『東京難民』 と、からかわれていること。 『喋ると消えてしまうという理由でシカトされている』 ということ。 その訴えを無視する訳にはいかず、甲本はこれから始まるホームルームで、事実確認と注意喚起を促す予定でいた。 校舎の廊下が、死刑台へと向かう長い長い終の道に思えた。 キャッキャと騒がしい声が教室から聞こえている。 甲本は、口の中に広がる酸っぱい胃酸の臭いに気が遠くなっていた。 『逃げたい!』 それが本音だった。
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