第1章

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 会社で嫌なことがあっても、今の僕は平気だ。  同僚は「今日も、あの上司。いびってたな」「ご愁傷さま」と言ったが、僕は形だけうなづく。内心どうでもいい。僕の痛みはあいつが受けてくれるから。 「ただいま」  家に帰る。  アパートで一人暮らし。それなのに、ただいまとは。別に、精神が歪んでるわけじゃない。何となくでもない。一応、身代わりしてくれるのだから、人形とはいえ、これぐらいの礼は必要だろ。だから僕は、ただいまと言ったんだ。  八畳間の部屋にベッドやら本棚、小さなテレビなどあり、そして部屋の中央には低いテーブルがある。その上に、人形がおかれていた。和風人形らしい、着物を着た長い黒髪の人形。頭身は変なくせに顔の造形がやたらとリアルで、気味が悪い……と、最初は思っていたが。 「ありがとう。今日も身代わりになってくれて」  そう、この人形は僕の心の痛みを代わりに受けてくれる。  変な宗教にはまったわけじゃない。出会いも突然で奇妙だ。いきなり僕の部屋にこの人形が現れたのだ。そして、こいつと対面する前に夢で予言めいたものが語られた。  ――あなたはこの人形に救われるでしょう。この人形はあなたの心の痛みを代わりに受けてくれます。ただし、人形にも限界があります。見ていれば分かります。もし、人形に限界が来たら、迷わず燃やしてください。  最初は、誰かのどっきりか。いや、そんなことする人はいないし。でも、あまりにも非現実的すぎるし、人形を捨てようかとも考えたが、顔が怖く、そのまま放置したのだ。捨てたら呪われそうだしさ。捨てなくて良かったと思う。捨てたら、この心はとっくに歪んでいた。  人形は日がたつ度に髪の毛が伸びる。  昔は肩までだった髪は、今じゃ腰のまである。 「………」  それから五日後、髪はもう彼女の身長を越えていて、テーブルから床にまで垂れていた。 「もう、限界か」  これがあると、上司に何を言われても平気だ。うちの上司は仕事が忙しくなると部下に丸投げする。そのくせ、部下がミスすると細かく叱責し、場を混乱させた。 「どうしたもんか」  髪の毛は今じゃ、部屋を埋め尽くすほどになってる。人形の髪は異様なほど肥大し、あんな小さな人形からどこから出るのか。 「………」  夢では、燃やしなさいと言われたっけ。  燃やさなかったら、どうなるかまでは教えられなかった。
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