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04 - 目の前に若草がひろがっている
目の前に若草がひろがっている。
そう思ったのは一瞬で、すぐに淡い緑色の天井だと気づいた。
身体を起こしたいのにできないのは、痺れるような倦怠感で力が入らないからだ。
やわらかく上等な寝台とかすかな香の匂い。
いまの状況は記憶の奥底に封印していた昔を思いださせるのにじゅうぶんで、身震いしそうになり無理やり腕をついて上半身を起こす。
そのとき、取手をまわす音がして扉が静かに開かれた。
入ってきたのは背の高い若い男だった。
「目が覚めたのか。具合はどうだ」
この男を覚えている――隠すつもりもないらしい額の紋章が、嫌でも記憶を刺激する。
「なんのつもりだ」
懐疑を言葉にだすと、彼はきょとんとした顔をした。
「なぜ私を連れてきた」
「森でもそんなことを言っていたな。偶然目の前におまえが倒れていた、それだけだ」
男の真意がわからない。
スィナンだと見抜きながら、なんの企図もなくただ助けたというのだろうか。
「それより、名前は」
男はにこりと笑って尋ね、寝台脇の卓にもってきた水差しから碗へ冷水をそそぎ、さしだしてくる。
なにを求められているのかわからず凝視していると、男は不思議そうにそれを見てさらに碗をつきだしたため、ぎこちなく受けとった。
「で、名前は」
くりかえされた言葉に目を伏せたのは、その質問があまりに異様だったからである。
誰かが自分に対して笑みをみせるということが、すでに理解の範疇を超えていた。
かなりの沈黙のあとようやく「カシュカイ」と答えると、男はまた微笑んだ。
「カシュカイか。俺の名はアイディーン。ここは島長の屋敷だ」
失神しているあいだに運ばれたらしい部屋をいちべつしたが、アイディーンがじっと見つめてきたのにつられ、無意識に目を向けてしまった。
すると不意に、彼はカシュカイの耳に指先を触れさせて感心した声を漏らした。
「スィナンの耳は本当に少しとがっているんだな。髪も眼もまるで宝石のようだ」
決して悪意のある接触ではなかったが、突然のことにカシュカイはしばらく身体を硬直させたまま動けなかった。
我にかえると、金茶の目がまだ子供のように興味深げに見ているのに気づき、狼狽してうつむいた。
――にらむか手を払いのけられるくらいは予想していたが、まったく意外な反応をされて、アイディーンは自分から手を引く。
わずかな隙もない無表情はその美貌だけに近寄りがたい冷たさだったが、思いがけずうろたえた顔があまりに無防備で見入ってしまった。
カシュカイは視線をおとしたままだ。
「驚かせて悪かったな」
アイディーンの謝罪に彼は身体を強張らせたが、口にだしてはなにも言わなかった。
そのとき、扉を叩くする音が聞こえてきた。
しかし待っても誰も入ってくる様子がないのでアイディーンが扉をあけると、侍女が廊下で不安そうに立っている。
アイディーンがスィナンを連れてきたと家の者は皆知っているのだろう。
かなり緊張した面持ちの侍女は、でてきたのがアイディーンとわかるとあからさまにほっとして、主人が呼んでいると告げた。
「必ずおひとりでおいでください」
アイディーンは了承して、カシュカイに一言断っておこうと部屋に戻りかけたが、あわてた侍女に「どうかそのまま」と必死に乞われてしかたなく扉をしめる。
案内されて書斎に入ると、島長が複雑な顔をして青年をむかえた。
「アダナ樹海の魔属はすべて始末していただけたそうですね。まずはお礼を申し上げます」
「いえ、俺より先に彼がずいぶん数を減らしてくれていました。おかげで思ったよりはやく済ませられたんです」
「そのスィナンが、魔属どもを呼びこんでいた可能性はありませんか」
島長の思いがけない疑念に、アイディーンはどういうことかと問いかえす。
「スィナンは我々島の者にも気づかれずアダナ樹海に潜んでいたのです。魔属たちを集めてこの地を殺戮しようとしていたかもしれません。なにを考えているかわからない連中ですから」
「しかし、俺は彼が魔属を狩っているのを実際に見ています。島民がスィナンに殺されたという話もないでしょう」
「危ないところだったのかもしれません。だいたい、本来スィナンは魔属同様に狩ってしかるべき対象です。それをわざわざ助けてどうするつもりですか」
「魔属以外のどんな種族でも理由なく殺せば罪に問われます。スィナンについていえば、法術院の管理下にあるはずですが、彼にはその証がない。まず事情をきかなければなりません」
「法術院の制御盤がないなら野生のスィナンということでしょう。つまり人間を糧にして生きながらえてきた、魔属と同じけだものです。そんなものが野放しになっていると島じゅうに知れわたったら、どんな混乱を招くかわかりません」
「彼は俺がシヴァスに連れて帰ります。スィナンの扱いは主国に一任されていますから」
「早急にお願いしたい」
島長は穢れた一族といわれるスィナンがシール島にいたという事実だけでも恐怖で、かなりの不快をともなっているらしかった。
いつの間にか自分の領地に入りこんでいたと思うと気味が悪いのだろう。
しかし、アイディーンはそれほどの嫌悪感をもっているわけではない。
スィナンの非道な行いについて、子供のころから教育として聞かされてはいたが、とかく物事を客観的にみる傾向のある彼は、その残虐性が一体どこからくるのかといった探求に向きがちで、自身や身内が直接こうむったわけでもない被害に恐怖や嫌悪をむきだしにできるほど感情的な人間ではなかった。
アイディーンは島長の書斎をあとにして、どうやってカシュカイをシヴァスへ連れていく説得をしようかと考えながら部屋へ戻ると、ベッドはすでに冷たくなっており、侍女に尋ねてもいなくなったことさえ気づいていないありさまだった。
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