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「ルカさん! みてください!」
嬉しそうな声がルカの集中を破った。全開にされた扉から外の喧騒と夏の熱気が流れこんでくる。
「いったい何だい? 暑いから閉めてくれ」
ルカは慎重にペンを置き、まだ乾いていないインクをそっと吹いてから作業台のそばを離れた。満面の笑みで重い木の扉を閉めたのは、常日頃から師団の塔に出入りしている書籍商の徒弟だ。二十歳になったばかり、弁が立ち、力持ちで元気がいい。親戚に回路魔術師がいるせいもあってか、ここにはよく馴染んでいる。
「例の本ですよ。アーベル師と騎士団長のあれです!」
本? たしかにその手には書物があった。しかしそれはルカが見慣れた無味乾燥な装幀ではない。表紙は優雅な文様で飾られていて、どうみても魔術書ではない。
「物語の本じゃないか。アーベル師と騎士団長って……例の瓦版? 王宮で評判になってたっていう……」
「いや、瓦版じゃなくて本になったんです。ほらこれ、挿絵もあるんですよ」
書籍商はルカの鼻先で革表紙をひらいた。『黒衣の魔術師と白銀の騎士』飾り文字の扉をめくると、繊細な線で印刷された口絵があらわれる。描かれているのは、影のようなローブをまとった黒髪の男と剣を佩いた精悍な武人。
「すごいですよね! アーベル師、主人公ですよ」
興奮した声の勢いに押されつつも、ルカは苦笑した。
「いや、でも瓦版のあれは要するにモデルってことだろう? アーベル師本人じゃ……だいたい、作者は誰なんだろう?」
ルカは若者の手から書物をとりあげる。ぱらぱらとめくると本文にも挿絵があった。
瓦版は王都の話題をペラ紙にまとめたもので、月に数回、休日の前に発行される。話題といってもほとんどは王城や街中に出回る噂話だが、毎号短い物語が載っていた。作者名は書かれておらず、今ルカの手にある本をひっくりかえしても、著者名が記される位置には渦巻の記号が押されているだけだ。
「作者は身を隠しています。秘密を知るのは版元だけで我々も教えてもらえないんですが、実はアーベル師は作者を知っているそうです」
「え? そうなの?」
「版元によると一応了承は得ているそうなんですよ。だから創始者の曾孫って設定はそのままで、そりゃ物語ですから、いろいろ盛られてますけどね」
「盛られてる」
ルカは思わずくりかえし、吹き出しそうになった。
「かなり荒唐無稽な話だろう? 満月のたびに血を啜る殺人鬼があらわれ、アーベル師が騎士団長と正体をつきとめ、回路魔術で退治するとか……」
「よく知ってるじゃないですか」
「瓦版の連載を何度かみたんだよ」
「物語ってのはだんだん大げさになるもんですからね。でも回路魔術の話はそこまで出鱈目でもないから、テイラー師も問題ないといってました」
「テイラー師にみせたのか?」
「みせたもなにも、これはテイラー師がポケットマネーで注文したんですよ。盟友の若かりし日々の思い出だ、永久保存版だって」
若者は無邪気な表情で、師団の塔の最高顧問である回路魔術師、テイラーの口ぶりをまねた。
「王宮の女官や貴族の奥方に人気なんで、確保するのが大変でした。これはルカさんの分です。あ、テイラー師は気にするなっておっしゃってます」
「じゃあコリンにも渡した?」
「もちろん、二冊」
「二冊?」
「一冊はアーベル師に送る分です」
「テイラー師がそうするようにいったのか?」
「はい」
もう老境に入ったといえる年齢なのに、かの魔術師は旧友をからかうのが大好きである。しかしコリンに任せるというのはどうなのか。
ルカは自分の長年の友で伴侶でもある魔術師の顔を思い浮かべる。きっと困惑しているにちがいない。それにコリンにそれを任せるのなら、きっと――
「アーベル師、いつ大陸から帰るんでしょうねえ。あ、ルベーグ師には直弟子のルカさんから渡してくれって」
商人はにこにこし、手品のようにどこからか同じ本を取り出した。やっぱりそう来たか。
ルカが回路魔術師になるために師団の塔の徒弟になった日からもう二十年以上たつ。近ごろは歳月がすぎる速さに驚くばかりだ。あのころルカを導いた回路魔術師たちは今の自分くらいの年齢だったのである。当時、師団の塔で三羽鴉と呼ばれていた実力者はみな老境にさしかかり、それぞれの道を歩んでいる。
最高幹部としていまだ塔にいるのはテイラーだけ。ルカが師事したルベーグは施療院近くの森の家にこもって趣味の研究に明け暮れている。そしてアーベル、回路魔術創始者の曾孫で、回路魔術全体に飛躍をもたらしたと評価される魔術師は、二年前に王国を離れている。騎士団の顧問を退いたクレーレ・レムニスケートと大陸に旅立って、そのまま帰ってこないのだ。
夕闇のなかアカシアの枝が揺れていた。例の本を小脇に抱え、ルカはそっと門扉を押す。
この屋敷はずっと昔、アーベルの伯父のものだったという。ルカがコリンとここで暮らしはじめてから、もう十年は過ぎてしまっただろうか。
アーベルは騎士団の重鎮だったクレーレ・レムニスケートと長年生活をともにしていたが、この屋敷はそのあいだも回路魔術の研究に使われていた。十一歳の時アーベルにひきとられたコリンがここを引き継いだのは、ルカとそろって王立学院を卒業したあとのこと。
屋敷の窓には明かりがなく、そのかわり、庭の一角に建てられた工房の窓が光っていた。ルカが子供の頃は同じ場所におんぼろの倉庫のような小屋があったが、ふたりが学院を卒業するころ、いつのまにか建て替えられていた。
「おまえたちの好きに使え」とアーベルはコリンとルカを前にいったものだった。
「回路魔術ってのはな、自分が好き勝手に考えをまとめたり、遊んだりする場所を持っておかないとだめなんだ」
ルカは扉を押し開けて中をのぞく。
「コリン?」
返事はない。つきあたりのデスクの上に明かりが輝き、床に影がのびている。知りあったころはそうでもなかったのに、コリンはいつのまにかルカの背を追い越し、やがてクレーレ・レムニスケートと同じくらいの背丈になった。といっても武人のようにはならず、今もひょろりと細長い体型を時に持て余しているようにみえる。
影を踏んでそっと近寄ると、コリンはペンを握って考えこんでいる。ルカはデスクの隅に例の本をみつけ、思わず声をあげて笑ってしまった。とたんに非難がましい声があがる。
「ルカ」
「テイラー師だろう」
「ああ」
「僕ももらった。今度ルベーグ先生にもっていかないと。何を悩んでる?」
「何を……って」
ルカは横からコリンの顔をのぞきこむ。想像した通り困惑した表情だった。手紙は最初の一行で止まっていた。
「そのまま書けばいいんじゃないか。テイラー師が面白がってるから送りますって」
「うっ……」
コリンは小さくうめき、ルカは微笑んだ。真面目で無口なこの男は外見から想像されるよりずっと、他人の気持ちを考えるタイプなのだ。長い付き合いのあいだ、何度もそれに気づくことがあった。だからいつのまにか惹かれて、いまにいたる。
「足りないっていうのなら、先に読んで感想を添えるともっといいかも」
「……ルカも面白がってるだろう」
「そりゃ、僕らにとても近い人たちのなれそめがこんなふうに物語になってるわけだから。ま、かなり無茶苦茶な話になっていくようだけど」
コリンが目を丸くした。
「知ってるのか?」
「瓦版で出てたときにすこし読んだよ。息抜きにはよかったし、きっとアーベル師もそう思ってくれるさ。いやあの人のことだから、これをきっかけに自分で物語を書きはじめるかも」
ルカはデスクの周囲に目をやる。並んでいるのはアーベルの著作だ。もちろん物語ではない。すべて回路魔術の教本か理論書である。
「魔術書はもう飽きたとか、返事が来たりして」
「はは、まさか」
コリンの手がやっと動きはじめた。アーベルによく似た筆跡だ。コリンはこの屋敷へ来たとき読み書きができなかったという。アーベルが教えたのだ。
ルカはコリンが手紙を書き終えるのを待った。神妙な面持ちで読み返している様子が妙に可愛らしくみえ、思わずにやにやしてしまう。視線に気づいたのか、コリンが眉をあげたので、いそいで口元を引き締める。
「アーベル師は今大陸のどこにいるんだ? 前に手紙が来たところ?」
たずねたのはもちろん知っていると思ったからだ。しかしコリンは首を振った。
「わからない。以前届いた手紙には移動中だと書いてあった」
「なんだって? 渡り鳥みたいな人だな。じゃ、どこに送るんだ?」
「大陸版元のヤン二世。彼に預ければいずれ届く」
コリンは手紙をきっちり折り畳んでいる。大陸のヤン氏はアーベルが若い頃修業した魔術工房の後継者で、今は工房運営のかたわら魔術書専門の出版社を経営している。
ここでもアーベルは本を出しているが、物語に手を出してはいないだろう。ヤン氏もこの本には驚くかもしれない。
ルカは美麗な革表紙をそっとひらき、もう一度口絵を眺めた。黒髪の魔術師は影のようなローブをまとい、剣を佩いた武人と意味深な目線をかわしている。物語は荒唐無稽でも、ここにはルカやコリンが知っている真実がある。
(おわり)
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