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子供の頃、熱をだしたある日。母は買い物に出かけていて、ひとりぼっちの部屋で寂しくてべそをかいていた。
ふいに、ドアの向こうから母の声が私の名前を呼んだのだ。
帰ってきたのだと嬉しくなり、返事をしようとした。すると突然ドアが開いて、そこには祖母が厳しい視線を辺りに巡らせながら立っていた。
お母さんは? そう問いかけた私に、まだ帰ってきてないよと答えた祖母は、布団のそばまで歩み寄ってこう言った。
人が弱っているところに付け込もうとするのはね、生きた人間だけじゃあないんだ。
弱っているときほど注意が必要だよ。あれは、人の油断を誘う声を知っているからね。
いいかい、うかつに返事をしてはいけないよ。
そして、気がついた。
母には、何かあったときのために合鍵を渡していたことを。
私はドアノブから手を離して、後ずさる。
息が苦しい。熱に浮かされた頭が、それ以上考えることを拒否する。玄関から目を逸らすことすらできなかった。
ドアノブが、ゆっくりと動く。
次いで、ドアが。
視界だけが忠実に、脳へ映像を運ぶ。
少しずつ見えてくる、ドアの向こう。
その、先には。
――やっと、応えてくれた。
それは満足そうに笑った。
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