第1章

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 彼女は、寝るときは六畳間の僕たちの寝室の、僕の枕元に置かれた自分専用の座布団で寝る。僕らが布団に入ると、どこからともなくやってきて座布団の上で身づくろいを始める。僕は寝間の中で小一時間、本を読む癖があるが、眠気がくると電気を消す。そして闇の中でミウに手を伸ばす。しかし、もうミウは座布団の上にはいない。電気を消した直後に消えるのだ。やがて台所から、カリッカリッと餌を噛み砕く音が聞こえてくる。彼女は僕たちが寝たのを確かめてから、初めて安心して餌を食べ、用を足すらしいのだ。 「おかしいよねえ。」 と、あるとき、妻が言った。 「おかしいと思わへん。今までの猫でこんなん、いてなかったよね。食べてたり、水を飲んだり、トイレをしたりしてるところを見ると怒るのよ、この子。私らが見てるところでは絶対しないよ。見たことないでしょ?」  それから妻は、唐突にこんなことを言ったのだ。 「……私、思うねんけど、この子、人間の生まれ変わりと違うやろか。それで、まだ人間の記憶が残ってて、砂にウンチしたり、ステンレスのボウルで餌を食べたり、そうするがいやなんやと思うわ。まして、それを私ら人間に見られるのが耐えられへんねんと思うわ……。」 「ふーん」と僕は言った。 「そうよ。そうやて、きっと。そうやったら、この子が賢いのも、言葉が分かってそうなのも、辻褄が合うやんか。」  妻は真顔だった。  確かに、その思いつきは、ちょっと面白かった。でも、僕にしてみればそれだけのことだった。  もし、そうであったにしても、なかったにしても、だからどうしようというわけではない。そういう意味でどうでもいい話だったのだ。妻もそうだったろう。ただ軽く思いつきを話したに過ぎない。  でも、その妻の話は僕の頭に永く引っかかってはいた。  それが、このごろ突然、どうでもよくなくなってきたのはどうしてなのだろう?  妻があの話をしたのはミウを飼い始めたときだから、それから今まで、ゆうに8年か9年は経っているのだ。それなのに、突然、僕に、こんな実験をやってみようという気にさせたものはなんだったのだろう?  説明のできる理由はないでもない。
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