【3】九十九の願い事

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【3】九十九の願い事

 高校卒業した佐加江は専門学校へ行き、保育士になって二年の月日が過ぎようとしている。  が、二十二歳になった今でも発情の気配はない。  外国から個人輸入で取り寄せている発情抑制薬はお守り代わりに、いつも首から下げているニトロケースに一回分だけ入っている。 「おじさん、仕事行ってくる」 「行ってらっしゃい。無理しないようにな」 「おじさんも、頑張りすぎないでね」  自転車にまたがり、古民家に診療所の看板を掲げた自宅を出る。今か今かと刈り取りを待ちわびる稲が生える田んぼの畦道(あぜみち)には、今年も曼珠沙華が綺麗に咲いていた。  オメガには発情期があるから定職に就くのは難しいだろう、と言われていた。就職先を選ぶ際、迷っていた佐加江に越乃が勧めてくれたのが、この鬼治村(きじむら)と隣村にまたがって建つ保育園だった。鬼治は越乃の田舎。佐加江も幼い頃から、良く知った場所だった。 「今日も、良い天気だな」  その保育園への就職が決まると、越乃はあっさりと大学病院を辞め、廃墟同然になっていた越乃の実家へ二人で引っ越した。無医村だった鬼治で越乃は、小さな診療所を始めたのだ。ここまでくると越乃の過保護ぶりも溺愛に近いものがあるが、一人暮らしが心配だった佐加江には、心強かった。  最初こそ、山々に囲まれた閉鎖的な村での生活に息苦しさを感じていたが、佐加江は過疎化の進んだ村一番の若手、可愛がられないはずがなかった。 「(ひろ)ジイ、おはよう!」  保育園に向かっていると、畑仕事をする老人がいた。 「おはよう、佐加江」  この浩ジイ、大学病院で佐加江を診察した藤堂の兄だ。カンファレンスルームでの例の一件もあり、最初は緊張していたが村長である浩志(ひろし)は親切で、何かと佐加江を気にかけてくれていた。今朝も畑仕事をしていた手を休め、日に焼けた顔を皺くちゃにして笑っている。 「今年は、南瓜(かぼちゃ)がたくさん採れたんだ。去年、佐加江が作ってくれたカボチャなんとか、作ってくれないか。あの甘くてとろっとした……」 「かぼちゃプリン?」 「そうそう。あとで診療所に届けておくよ」 「なにそれ、作るの強制じゃん」 「ははは。南瓜があんなに美味いとは知らなかったんだ」 「時間ができたら作るね。診療所に行ったら台所に、このあいだ作った無花果(いちじく)のジャムが瓶詰めしてあるから持って行って。おじさんに聞けばわかるから」 「パンがないといけないな」 「もう、わかったよ。パンも次の休みに作って持っていく。熱々のパンにつけて一緒に食べよ。仕事行ってきます!」    浩志に手を振って別れ、真っ赤な鳥居が幾重にも重なる稲荷の前で自転車を止め、手を合わせた。幼かった頃、ここで遊んでいた覚えがあるのだが、曼珠沙華を両手に摘んだあの年から村へ来ておらず、記憶は曖昧なものだった。 「発情がこのまま起きませんように。今日も仕事、頑張ります!」  発情という言葉に抵抗がある佐加江は小さな声でお参りし、再び自転車に乗って保育園へ向かった。  こんな過疎地に保育園とは不思議なものだが、隣村は発展しており園は児童の定員を満たしている。ただ、鬼治村から通う子供はいない。過去に総理大臣を何人も輩出している鬼治も隣村同様、発展して良いように思う。が、都会と太いパイプがあるにも関わらず、あえてそれを拒んでいるようでもあった。  戦後まもなく鬼治村は、秘密裏に特区になった。第二の性の研究地区とされ、今でも毎年、多額の予算がついている。
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