【3】九十九の願い事

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「お先に失礼します!」  終業時間を少し過ぎ、リュックを背負った佐加江は保育園を後にした。自転車で走り出すと夕暮れ時の風が肌寒いくらいだ。  鬼治村へ入る細い一本道は途中、小さな山を貫いたようになっている。光を遮るように木々がうっそうと生い茂り、昼間でも薄暗い。削られた山肌は苔むし、そこだけ温度が違った。  その中ほどあたりに、立派な門柱がある。村の神事の際、他所者に邪魔されないよう閉鎖するためのものらしいが、今では過疎を理由に執り行われなくなったと聞いている。そこさえ抜ければ視界はひらけ、のどかな田園風景が広がっていた。 「今日こそ、青藍に逢えるかな」  朝、手を合わせた鬼治稲荷の前で自転車を止めた。春には桜が美しいこの境内が、今も昔も佐加江のお気に入りの場所だった。  幼い日の約束を胸に、引っ越してきて二年と少し。すぐにまた逢えるのだろうと心躍らせていたが、佐加江は今だ青藍に会えていない。  オメガと聞いて放心していたある日、ふと「青藍と結婚できるじゃん!」と霧が晴れたように自身の運命を楽天的に捉えた。鬼治で就職することに躊躇がなかったのも、そんな下心からだ。が、ここへきて佐加江の人生設計に暗雲が立ち込めたように思う。  あの頃、確かにここで青藍に会っていた。「結婚してください」と佐加江は青藍に何度もプロポーズした。が、いま考えると恥ずかしくて仕方がない上に、肝心な青藍の顔が思い出せない。  月のような青みを帯びた白髪の長い髪と一角、耳たぶには大きな輪っかの真鍮(しんちゅう)()とう――。  それくらいしか佐加江は、記憶に留めていなかった。漠然と自分は青藍と結婚するものだと思い込んで、この歳まで来てしまった。客観的に見て少々、痛い人間だと自覚もある。 「幻だったら、どうしよう」  夢見る夢子ちゃんか、あるいは記憶違いも考えられた。  思えば小さい頃は、いろいろな不思議な者が見えていた。教室の隅にたたずむクラスメイト女の子や深夜の金縛りの後にやって来るテケテケ、帰りが遅くなった夕暮れ時の通学路で子供たちを見下ろし、「ぼぼぼぼ」と低い変な声で笑っている大きな大きな八尺様(はっしゃくさま)を見たこともある。  それらをいつからか、めっきり見なくなった。もしかしたら大人になり、あやかしが見えなくなったのかもと目を引ん剥いたり、細めたりしながら仕事終わりにここをうろつくのが、佐加江の日課だった。  お百度詣りはとうに終わっている。もう千日に届きそうだった。  鳥居をいくつもくぐり、大きな社を通り過ぎると裏に小さな(ほこら)が隠れるようにひっそりとある。しめ縄が飾られた洞窟を背負うようにあるその祠の扉が、今日は少し開いている。
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