第1章 予兆

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 午後7時20分  腕時計を見ながら明良は焦っていた。鞠子が待っている。病院の面会時間は8時までだ。今夜は仕事が長引き、もう40分しかない。明良は、オフィス街を斜めにショートカットしようと、ふだんはあまり使わない路地を速足で歩いていた。表通りの喧騒が薄くなり、どこかしら暗さも増した道には人通りもほとんどなかった。  すると突然、何か強い力で引き留められるように足が止まったのだ。驚いた明良の眼に光が飛び込んできた。  あれ?こんなところに店あったっけ?  今までもここを通ったことがあるはずだが、気づかなかった。確かに見つけにくいと思う。その店は道から数メートルほど引っ込んでいて、高いビルの隙間に埋もれるように建っていたのだ。  明良は何故か通り過ぎることができず、店の前に引き寄せられるように近づいた。古ぼけた木の看板には、浮き彫りで店名が刻まれていた。  『時の隠れ家』  変わった名前だな。  間口の狭いその店のショーウインドウには、5、6才児の背丈ほどの大きな砂時計が飾られていた。  繊細な彫刻が施された木枠の中に、美しいフォルムのガラスがくびれを作っている。奇妙なことに、真っ白の砂はすべて上の部分に溜まっていて、落ちる気配もない。そのバランスの悪さに、思わずひっくり返したい衝動に駆られる。  ガラス戸越しに中を覗くと、いくつもの古い掛け時計が壁一面に飾られている  時計店のようだった。  鞄の中には、修理に出そうと持ち歩いていた目覚まし時計があった。  いや、違うだろう、今はそれどころじゃない!面会時間!  明良は弾かれるように路地を飛び出し、駅へと走り出した。  その瞬間、砂時計に小さな変化が起こった。  白い砂が一粒だけ、金色に輝く雫となってこぼれ落ちたのだ。  音もなく店の扉が開き、店主の呼子(よぶこ)は走り去る明良の背中を見送った。  視線を砂時計に戻すと、また一粒、金の砂がキラリと落ちていった。 「待ち人来たり」  呼子はうっすらと微笑んで、黒い服の裾を翻し扉を閉じた。  店の照明が落ちると、あたりは、そこに何も存在しないかのような、  深い、漆黒の闇に沈んだ。
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