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狩音の言葉を、衣音は理解できなかった。
「え…」
「その数珠」
狩音は、衣音の手元を指差す。
「牙迅王の前でその数珠を外さなかったのは正解だ、衣音。それは鬼の子種を払う術が仕掛けてある。いくら子種を注いだところで、お前は牙迅王の子を孕むことは無かった」
「この…数珠…」
手首には、牙迅王に攫われる前に新たに施した数珠が嵌っていた。
「これ…が?」
「お前の一番目の数珠を外したのは、玻璃王だな?そして、何も知らぬお前を、玻璃王は犯した。全ては算段通り。あとは、その腹の子に触れれば、全ては私の望むままだ。衣音、そこに居なさい」
にこりと微笑む狩音を見て、衣音は何かがおかしいと感じていた。
「さあ、衣音」
「いやだ、触れるな!」
触れるか、触れぬかのところで、衣音は拒否を告げた。弾かれたように、狩音は右の腕を庇う。
「衣音…!」
「父上…」
何かが、目の前を横切った。
浅葱色の蝶が、二人の合間をすり抜け、飛んでいくのを、衣音は見た。
同じ様に、狩音も、その目で追っていた。
「え…父上…どうして…」
ばたばたと駆け寄ってくる気配が響き、御簾を乱雑に除け末上が飛び込んできた。
「衣音!大丈夫…っ?」
息を切らした末上と、僅かに息を上げた玻璃王がそこに居た。
「末上…!玻璃王も…」
「衣音、何ともない…?お腹の子も、無事…?よかったあ…」
末上は衣音の腹部をそっと撫で、安堵したようにほうっと息を吐いた。
「衣音…」
衣音は、掠れた低い声が己の名を呼ぶのを耳にした。
見れば、そこには狩音が立っていたはずだった。
「え…父…上…?」
立っていたのは、皺だらけの土気色した肉塊だった。
額には、突き出た角。
狩音の纏っていた狩衣を着た肉塊は、辛うじて顔だと分かる箇所を、口を開いた。
「衣音、私には時間がない…。その腹の子を、こちらに…」
「え…父上…そのお姿は…」
今にも朽ち果てそうな姿の狩音を、蒼真は印を結び陣で囲う。
「狩音は、鬼だ。衣音。都を守る大結界も、人ごときのできる技ではない。この御方は、今まで、自分の命と引き換えに都を守ってきた」
蒼真は、印を解き、静かに狩音のそばに立つと、言った。
「我々も狩音に拾われ、術を磨く中で方法を探した。だが、これしか無かった。狩音には時間があまり残されてはいない。あとに残った手段は、衣音の腹の子に、狩音の魂を被せるしか、道が無い」
「そんな…父上は、鬼だというのか?」
「ただの鬼ではない。この都の大結界を結び、鬼を排除する。それができるのが狩音だけ」
…いかにも…
どこからか、声が響いた。蒼真の陣の中で、狩音はすでに口を動かすことも困難であるようだった。
「狩音はじき死ぬ。それを止めることがでいるのは、衣音、お前だけだ」
「死ぬ…?父上…が?」
父と呼んでいた成れの果ての肉塊を、衣音は見た。
優しく微笑むその顔も、今は面影さえない。
この頭を撫でた手さえ、牛蒡の様に黒ずみ、細く、骨ばかりになっていた。
「…衣音…だめだ」
末上が、衣音の手を引く。
「い…」
「ありがとう、末上。助けを呼んでくれて」
「え…」
衣音は末上に笑いかける。そして、そのまま玻璃王を見た。
「玻璃王、この腹の子は、あんたの子なんだって」
「……」
玻璃王は、表情一つ変えず、衣音を見つめていた。
「あんたは、知ってたんだな」
「…ああ」
静かに、玻璃王は肯定をして蒼真を見る。
蒼真は、衣音に手を差し出した。
「子は、何も死ぬわけじゃない。ただ、狩音の記憶を持った子が生まれる。それだけだ」
衣音は、頷く。
「信じるよ、兄上」
「いい子だ。生まれてくる子も、いい子に育つだろう」
蒼真に導かれるまま、衣音は狩音の身体に触れる。
狩音は生きているのか、死んでしまったのか、ただの肉塊となっていた。そっと、触れると、触れたところから灰のように粉々になっていく。
「!」
驚く衣音を前に、粉々になった身体は、小さな球体になり光を放つと、衣音の腹部へと吸い込まれ消えた。
とくんと、衣音は胎動を感じた。
「あ…」
思わず、腹を押さえると、玻璃王がその手をそっと包んだ。
「大丈夫か」
「…うん」
蒼真を見れば、いつもの様に穏やかな顔をしていた。その唇が、薄っすらと弧を描いて開く。
「これで、邪魔者はひとまず片付いたというわけだ」
声音も穏やかなまま、蒼真は言った。
「え?」
衣音は、何を言っているのだろう、とその顔を見た。
蒼真が素早い動きで身体の脇から太刀を引き抜く一閃が見えた。
ずく、と鈍い音が響いた。
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