Adagio

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 先ほどはパリの人気店だったが、こちらはウィーンの老舗洋菓子店である。パッケージの可愛らしさと安定した味のクッキーは贈り物の鉄板で、貰い手を必ず笑顔にする、魔法のような力を持っている。  有紗は同じ職場に勤める、ある人のことを思い出していた。「ありがとう」と笑いかけてくれる優しい笑顔を想像するだけで、胸の奥が温かくなる。 (坂巻さん、喜んでくれるかな)  上がりそうになる口角をきゅっと引き締めたまま支払いを済ませ、黒い紙袋を受け取った。賑やかな売り場をまっすぐ抜け、人の流れに乗って駅と直結した地下通路へ向かう。 (一回だけでいいから、坂巻さんと一緒においしいケーキ食べに行けたらなあ)  有紗はそっと、淡い恋の溜め息を吐き出した。  憧れの人と付き合いたいだなんて大それたことは考えていない。任される仕事の需要さがまるで違うし、向こうは誰からも必要とされる才能のある人。それに引き換え自分は、誰にでも出来るような仕事をこなすことさえ精一杯だ。その上、見た目だってまるで釣り合わない。  ふっと有紗の横を、流行りの服に身を包んだ女性グループが通り過ぎていった。細身のテーパードパンツには程よいゆとりがあり、ちらりと覗く足首は同じ人間とは思えないくらい華奢だ。
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