Adagio

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「駄目だったね。でも坂巻さん、やっぱり行きたかったんだ」  華美はスマートフォンのモニターに視線を落としながら、優しく目を細めた。華美のこんな表情は、坂巻のするそれと少し似ている。 「とりあえず、忙しい坂巻さんを誘う価値が本当にあるかどうか、まずはわたしと綿貫さんで下見だね。……あ」  スマートフォンをしまいかけたとき、ちょうど着信が入ったようだった。華美はもう一度モニターに目を向けた。 「坂巻さんがね、神長さんのこと誘ってみてもいいかって訊いてきたんだけど。今、一緒にいるみたい」  ここで突然出てきた神長の名前に、有紗の心臓がはねる。しかしそれは驚きだけではないようだ、鼓動はなかなか落ち着かない。 「綿貫さんは、神長さんのこと苦手だったりしない? 大丈夫?」 「はい。むしろ……」  出かかった言葉に自分自身驚きながら、有紗は口に手を当てた。突飛な仕草を見て不思議そうに首を傾げる華美に、「大丈夫です」と、有紗は硬い笑顔を向けた。 「美味しいものは、それを好きな人みんなで食べたほうが絶対に、もっと美味しくなりますから!」  照れを誤魔化そうとするあまり、必要以上の力のこもった言葉になったが、華美にはもっともらしく聞こえたようだった。納得したように数度頷き、返信を打ち始めた。
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