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 先のホールに漂っていた、言いようもない空気が肺腑を爛れさせているような、そんな気分だった。ヴァレンタインは思わず廊下の壁に手を付いて立ち止まった。体調が悪いわけではないが、錯覚的なめまいがする。美しいまつ毛で飾られた目を閉じた。そうすると思い返してしまう、父の、死相。  身体が震え、蹲ってしまいそうになった。吐き気もした。死という事実に恐れをなしているのではない。悲しみに打ちひしがれているのではない。そこまで神経が細いというわけでもないはずだった。学友たちからも、お前は幾つ仮面を持っているのだと呆れ混じりに笑われるくらいには、駆け引きだらけのこの社会を渡ってきた。そうだというのに、今日は何故か。ただ、どうしようもなく身体の芯が冷えるのだ。  立ち止るのは悪手だと知り、彼は引きずるようにしながらもまた一歩を踏み出す。  その彼を呼び止める男がいた。 「ヴァレンタイン君、やあ、どうかしたかね」 「……コーツベルグ卿」  それは今日、屋敷に宿泊する者の一人だった。ヴァレンタインは力を振り絞って、背筋を伸ばす。長い手足を持つ細身の長身である彼と比べれば、声をかけて来た男は小柄だった。少し出た腹と、薄くなりかけている頭。身を包む服飾品は全て最高級。齢は五十に満たないほどだと、ヴァレンタインは記憶している。     
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