君か僕のいない夏

2/15
3人が本棚に入れています
本棚に追加
/15ページ
少し、街から離れた湿原。湿地の上に架かる気の板を踏んでいく。好きに伸びた緑の雑草がくるぶしをかすめた。湿原を抜けるとそのまま山裾へとつながっていく。鬱蒼とした木々のでこからともなく蝉がけたたましく泣いていた。少しずつ重たくなる足を引きずるように登っていく。光を反射する小さな沢を飛び越えた。日陰が増えて涼しい風が吹く。じっとりした汗でTシャツが背中に張り付いた。 木でできた急な階段を見上げる。階段の先は木々がひらけて強い日差しが照り付けている。肌が焦げそうなほどの日、微かにあがった息はひどく熱く感じた。 山の尾根を歩いていくと小さな広場がある。申し訳程度の木のベンチ、引き出しの付いた白塗りの小さな机。じゃわじゃわと四方から声が響き、焦がすような白い光、熱を帯びた地面。 そうだ、あの日もこんな夏の日だった。 踏み外された水色のスニーカー。風にあおられ飛んでいくキャップ。見開かれた目、何か言おうとあけられた口。真白の光、青い空、視界の端の?香Bぐらりと傾く身体。小さな体は尾根の向こう側へと消えていった。 「ナツキ!」 世界から音がなくなった。ナツキは悲鳴を上げていたのか、何かを言っていたのか、それとも絶句していたのか、僕にはわからない。ただ、こちらへ伸ばされた褐色の小さな手は、確かに僕の手を掴もうとしていた。 僕がナツキへと伸ばした手は、あと15センチ、足りなかった。小さな手は、何もない宙を掻いた。 今日によく似た夏の日だった。 あの日から10年たった。いまだに僕はあの15センチを悔やみ続けている。 尾根の端に立つ。下は木々がさえぎっていて地面を見ることはできなかった。見下ろしても、何も見えない。あの日と同じ蝉の声、同じ日差し、同じ緑、同じ風、ただいない彼女と、大人になった僕だけが違っていた。汗が顎を伝って向こう側へ落ちていった。 もし、あの日に戻れるなた、僕はきっとナツキの手をつかめる。落ちそうになった身体を引き戻して、二人して転んで、びっくりしたね、怖かったね、なんて少し冷や汗を垂らして笑うんだ。決してありはしない、もしもだけど。ナツキはもうどこにもいない。 日差しに耐えかねて、木陰へと腰を下ろしたさわさわと吹く風は信条に反してどこまでも穏やかだった。 何を願っても、何を思っても、もう全部遅い。今さら何を悔やんだところで何も変わりはしないのだから。
/15ページ

最初のコメントを投稿しよう!