君か僕のいない夏

9/15
前へ
/15ページ
次へ
朝から雨が降っていた。傘をさしたまま湿原を抜ける。尾根に着いたころには足はぐしょぐしょに濡れていた。階段を上った先、僕らのノートの入れてある机の周りには誰もいない。時計を見れば、約束の時間だった。むしろ雨でよかった。野次馬や茶化しに来る人間はいないだろう。 2017年8月30日14時、雨天 僕らのノートにはすでに日付と天候が書かれていた。 「雨なのに、来てくれてありがとう。」 ノートに雨粒が垂れないよう、注意して書く。たぶんややあって、彼女が書きだした。 「そっちこそ、ありがとう。わざわざ会いに来てくれて。」 本当に不思議なことで、彼女はここにいないのに、ここにいた。白かったはずのノートに、鉛筆の柔らかい黒が書かれていく。丁寧で細い、女性らしい字。野山を駆け巡っていたナツキのイメージには合わない、大人の女性の字。むなしいほど、時間を感じさせた。それはきっと、お互いにとってだけれど。 「たぶん、これで最後になると思う。」 「私も、そう思ってる。むしろ、これで終わらせたい。」 意味は分かっていても、まるでナツキに嫌がられているようで、苦笑いをした。 「ごめん、気分悪いかもしれないけど話が聞きたい。」 「――最期の?」 「ああ、最期の。僕も書くから、ナツキも書いてほしい。これで終わりだ。ノートは僕が持ち帰る。」 「私たちの最期は、私たちだけのものって?」 「そう。」 しばらくしても、文字は浮かばない。おそらく、僕から書き始めるのを待っているのだろう。 これを書けば終わる。これは間違いなく、僕らにとって悲しいことだ。でもこれをしないときっと終われない。文字通り、僕らは死者に縛られたままになってしまう。
/15ページ

最初のコメントを投稿しよう!

3人が本棚に入れています
本棚に追加