もう一人いた!

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ぱちぱちと小気味良い音を立てて、火は広がっていた。信長は暫く火を見つめていたが、やがて静かに踵を返すと一番奥の部屋へ入っていった。  最初で最後の大油断だと、彼は自嘲しながら小刀を取り出した。腹に宛がうとひやりと冷たい。まさか光秀が謀反を起こすとは思わなかった。熱い火に包まれようとしている今この時でさえ、この事実は信じ難かった。 「所詮、うつけはうつけか。」  吐き捨てる様に呟くと、一気に腹に小刀を埋め込んだ。襲い来る激痛に歯を食いしばって耐え、更にもう一押しする。熱さと激痛で遠のく意識の中、彼は眩い光を見た気がした。何かに光が反射した様な閃光。それが彼が見た最後の光景だった。  良い天気の日だった。気持ちのいい青空に鞠が飛び交う。と、その時。鞠だけでなく皮靴が一足飛んだ。 「おお。葛城皇子。あなたの靴だ。」 「中大兄皇子らしい。取ってらっしゃい。」 「そ、それでは取って参ります。」  彼方此方で湧き起こる忍び笑いに顔を赤くして、葛城皇子もとい中大兄皇子は靴を追いかけその場を後にした。そそくさと走り去るその背中を見つめながら、人々はやれやれと肩を竦める。 「あれで次期大王候補ですからなぁ。」「勉学はようお出来になるが、武術は弟君に譲られている感がありますな。」 「でもなかなか達者だ。見目も麗しいし。問題はあの呑気さです。」  そう、彼の美点にして唯一の欠点はその呑気さだった。平和な時ならばいざ知らず、内外共に不安定なこの時期に於いては、その気質はあまり一国の主には歓迎されぬものだ。 「やはり古人大兄皇子ですかな。蘇我も付いておりますし。」 「あの方よりは中大兄皇子の方が……。」  そう言って渋い顔をして一人が黙り込むと、会話が途切れ重苦しい空気が立ち込めた。  誰しもが、蘇我に媚びを売っている古人大兄皇子を良く思っていないのは事実だった。彼が皇位に就けば蘇我本宗家の専横が酷くなるのは必至である。だが誰も蘇我には逆らえない。蘇我系であるにもかかわらず、山背大兄皇子らその一族が滅ぼされたことは記憶に新しい。  意に背く者は尽く潰されるのだ。皆が蘇我蝦夷と入鹿親子には逆らえなかった。  中大兄皇子は藤の木の下で靴を探していた。きょろきょろとしていると、肩をとんとんと叩かれる。 「これをお探しなのでは……?」
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