第8章

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 何も無かった様に日常が動き出した。時間が止まっていたのかと錯覚するくらい、本当に夢だったのかと思うくらい変わらぬ日々に戻っていた。  あれから1年が経っていた。  たった一年、されど一年。他の人にはわからないであろう、不思議な感情のまま過ごした1年だった。  変わった事。夜のお酒を控えるようになった。ちゃんとメイクを落としてから寝るようになった。___身なりに気を付けるようになった。おかげで、お客様から連絡先を聞かれた。外人さんだったため、上手く断れずにみんなにはやされながら拙い英語でお断りした。 「沙也加ちゃん、あれ、どうだったの?」 「あれ、ですか?」 「こないだ言っていたじゃない。絵を売りに出したんでしょう?」 「あぁ、あれ、ですね。ありがたい事にご購入いただけたんですよ!」 「あらぁ、凄いじゃない!素人の描いた絵なんて普通は売れないわよ」 「素人ですけど、失礼ですよ、松尾さん」  そう、趣味だった絵を描く事を再開した。家に帰ると抜け殻になってしまうから、何か始めようと思った時に真っ先に浮かんだのが絵だった。我ながら、インドア派だと思う。  始めたからには見て欲しいと思い、先日初めて売りに出してみた。そういうアプリがあって、写真を見て気に入ったら買って貰える。実物を見たいという人には、実際に会って見てもらう事も出来る。私の場合は自宅に来てもらうわけにもいかないので、それを請け負ってもらって専用ブースに絵を送った。スタッフの人に聞いた話では、即決で買ってくれたそうだった。嬉しい事だった。  日々が少しずつ充実していった。仕事だけに生きるのではなく、めいいっぱい楽しむ人生を送ろうと思った。前はあれいいな、これいいなと羨んでばかりの人生だった。今は、幸せを掴むために少しずつだが行動できるようになったと思う。  暖かな日差しに起こされて、朝の冷たい空気を浴びるために窓を開く。今日は嬉しい日だ。手早くお風呂に入って、身支度を整える。バッグの中を何度も確認した。ティッシュもハンカチもある。一応、アトマイザーに香水を移してバッグに忍ばせた。タバコバニラの香りの香水は、大好きな”煙草”と”バニラ”を両方楽しめる。 ピンポーン  時間きっちりになるインターフォンに相手を確認せずに飛び出す。 「びっくりした。迎えに来たよ、さや姉」
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