迷える子羊

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そんなやり取りがされているとも知らず、別室では白衣を着た女性がデスクの前に立っていた。 一見、冷たそうに見えるが、その顔立ちは均整がとれていて、身長はさほど高くはないが細身で脚が長い。それでいて、大きな瞳が幼さを感じさせる。背中まである髪はひとつに束ねられ、伸びた姿勢が知性をも感じさせるから、見た目では年齢不詳と言えた。 デスクだけが置かれた、一面まっ白な部屋。大きな窓からはビルや車、蟻のように小さい人間の姿が見える。 デスクのすぐ横には、資料室とこの部屋を繋ぐ小窓がある。 ここからカルテが送られてきて、入室してきた患者と対談する。 カウンセラーとの対談が終わると、別室で医師との対談が行われる。カウンセラーと話した内容がカルテに記載され、医師はそれをもとに現在の状況や治療法を患者と相談していく。 徹底した個人情報の管理。 相談内容が漏れないように、部屋は防音となっている。 現代では心に闇を抱える人間が多い。 その闇を人に悟られないように生きるのは苦しいものだ。 闇は隠せばその色を濃くする。更に深い闇へと変わり、人はどんどん病んでいく。 そんな人々のためにメンタルクリニックは存在するのだが、患者と向き合えば向き合うほど分からなくなっていくのだ。『本当にこんなことで治るのだろうか?』……と。 着ていた白衣をきれいに畳んで机の上に置くと、その上に、 『カウンセラー 折原(おりはら)彩香(あやか)』 と、書かれたネームを置いた。 その横に辞職願と書かれた白い封書を置く。 小さな息を吐くと、窓に歩み寄って外の景色を見下ろした。 やはり働き(あり)たちが忙しそうに街中を歩き回っている。歩道でティッシュを配る女性。まだ寒いのか、ダウンジャケットを着ている。 よく考えると、きれいな建物が立ち並んだ駅前だけは別空間のように思える。見た目だけきれいにしても、田舎は田舎。虚勢を張っているだけに過ぎない。 「ここでもないみたい」 彼女はそうつぶやくと、そっと目を伏せた。 探しているのは都会でも田舎でもない。自分の居場所。もう33年探し求めているけれど、目的地にはたどり着けずにいる。 ここが自分の居場所ではないと察した彼女は、躊躇(とまど)うことなくバッグを持って部屋を出た。
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