序章にして終章

2/3
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/3ページ
 開演のベルが鳴るずっと前から万雷の拍手は耳を聾せんばかりで、万波よろしき熱狂の、ある時は渦となり、ある時は高潮となって客席を轟かすこと手にとるごとく推し知られ、団長の茂呂魅は万感のおもいに駆られた。ときはつごもり暮れつ方、ところは九段の武道館、師も博労も隠亡もご新造さんもマンドリルも漁労長も抜作も皆走ることをやめ、二十一世紀の日本を代表するポップミュージックグループ「世界の尾張漬けとハードボイルドワクワクワンダーフォーゲルバンド」の歳末ギグに殺到したのである。  "世界の尾張漬け"の芸歴は決して長くない。茂呂魅はとって二十七、深田久弥の曾孫にあたり、久弥、久座、久利の三代につらなるまごうかたなき山岳エリートの直系である。しかし茂呂魅の半生は多難であった。すべては宿痾のごときその名のためであった。給食で揚げパンのもろみ和えが出るたび、悪餓鬼ばらはヒヒのように歯をみせて囃したてたし、銭湯帰りの若後家にも「きゅうりがもろみを生んだのね」など口はばったい猥語を耳元でささやかれたりもした。茂呂魅は早くして無常を悟った。  家業を継ぐ気などさらさらない茂呂魅は学校出るなり伊吹山に籠もり、マタギの暮らしを始めた。はじめから凄絶な孤独を豫想していたものの、意外にもすぐ仲間が出来た。癲狂院を逃亡した道化のピエトロ、山伏相手をなりわいとする白拍子のお蝶、そして突然変異の化け兎ピョン吉こいつは時たま妖術を繰る。いずれも人里きらって伊吹に辿り着いた流れ者、はじめ距離を保った茂呂魅でも、打ち解けるに多くの時間を要さなかった。 「ひよこ豆を豆たらしめるはこれなにゆえなるか」 「ひよこ豆はひよこにあらざればなり」 「しかれど汝もひよこにあらずんば汝も復た豆といわざるべきかは」 「こりゃ一本とられました」  ハッハッハ。玲瓏な月明かりに浮かぶ漆黒の稜線を四人の哄笑がかけあがる。そしてとんちの組手が終われば、きまって皆で夜のスキー。里からぬすんだ塔婆を履いて、かがり火片手に直滑降、口つき出るは「ミ・アモーレ」、情愛知らぬで育った四人の歌は蕭条として哀切きわめ、山降り谷越え天駆けて、渺たる野を越え海越えて、はるけくひびけば東京は麻布十番、ルサンチマン・レコードの辣腕プロデューサー鬼瓦ボボの耳朶を撃った。世界の尾張漬け、実にデビュー半年前のことである。
/3ページ

最初のコメントを投稿しよう!