序章にして終章

3/3
前へ
/3ページ
次へ
 思えば遠くへ来たもんだ。武道館の緞帳裏で茂呂魅は感慨をあらたにした。ローディの天狗堂が一分前を告げにくる。これはもともとお蝶のヒモであるが、ツアーに出ると山伏修行をすておいて便利屋を買って出る。さあ始まる。バンダイ製の無電機もどきをはす交いに握り、おきまりの大見栄を固める。ピエトロもお蝶もかんばせ引き締め瞑目に余念がない。ピョン吉も…と目をむけた刹那、全身から血の気がうせた。化け兎は猫いらずを食っていた。だめだ、あれほどだめと言ったのに。開演のベルが鳴る。だめだ、幕を上げるな、誰かとめろ、誰かー。  冬の朝日にも似た乳白の閃光がじきに消え、目が慣れると、ジャラジャラと手巻きの幕が上がるのが見えた。さきまでの歓声は一睡の夢のごと、静粛あたりを払い、無数にならぶカンテラの明かりは弓なりに正面奥の桟敷席まで広がっていた。唾をのむ。ふり見れば段幕に『皇紀二千六百年奉祝大音楽会』の朱文字がドンと。慄然として客席見ると、無数に居並ぶ髭づらの将校が身じろぎせずに此方をねめつけている。そして正面上方の黒ビロードで飾られた格別美々しい一角には、教科書で見たことのあるロイド眼鏡の貴人がゆらゆら半身を振っていた。舞台袖に擦れあうサーベルの音に、異状を察した憲兵の蝟集せることが知られた。バンドにはもう歌う途しか残されていなかった。 かがり火焚いてボンソワー/ 夜闇切り裂き駆けるよ塔婆は/ 君らは愛の守銭奴さ/ 僕らは愛のこつじきさ/ アイラブミーフォエーバ/ ユラブミーフォエーバ/ 休戦しようぜ法螺貝おいて/ 夜戦の味はミロの味/ もろみはやっぱり生がすき/ ああ/ ミ・アモーレ/ ああ/ 愛・たもーれ/  まず黒ビロード席の貴人が消え、侍従らが立ち、そしてカンテラが消えた。十秒後、抜刀した憲兵らに押さえられ、茂呂魅ら一党は縄手に取られた。これが昭和十五年、帝都を震撼させた不敬事件の一部始終である。神武東征から二千六百年とされるこの日、軍部肝いりの式典で、妖術使いの化物従え惰弱な精神と忌みことばを振りまいた茂呂魅らのその後、未だ杳として知れず。 (完)
/3ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加