第1章

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 このマンションは、ほとんどシングルの男性ばかりで、入居の際にもかしこまった挨拶などしない。隣に、誰が越してきているのかも知らなかった。 「だから……だめ……だってば!」 (な、なんだ?)  そうこうしているうちに、なんだか怪しげな雰囲気になってきた。 「だめって感じじゃないだろ」 「ん……っ!」  その声はなまめかしく、演技には思えない。どうやら二人は、Hに突入しそうな雰囲気になってきた。 (マジかよ……)  てことはあの二人……。男同士だってのにか? しかも、真っ昼間から。  悪いことをしているわけでもないないのに、後ろめたさでドキドキしてしまう。こうしている間にも、二人はますますヒートアップしていく。 「なんだよ。やっと会えたってのに、じらすつもりかよ」 「だから、早く閉めてって、言ってるだろっ!」 (マジかよ)  聞いてはいけないものを聞いたような気がして、語いの少ない若者のように、同じ言葉を繰り返すばかりだ。  まさか、こんな事態に遭遇するなんて、夢にも思わなかった。  自分が、なにかイヤな思いをさせられたというのでもなく、これは、あの二人の嗜好なのだ。無視すればすむことなのに、どうして自分がこんなに動揺しなくてはならないのだろう。  そうこうしているうちに、ぴしゃりと閉められるガラスの戸。我に返り気付けば、固唾をのんで聞き耳を立てている自分がいて……。  こういう世界が現実にあるとわかっただけでも驚きだというのに、それが無性に恥ずかしく、忍び足で室内に戻る桔梗だった。           1 「あれ」  そんな衝撃的な出来事から数日後、仕事から帰った桔梗は郵便受けを覗いて、小さな声を漏らしていた。    橘 咲弥(たちばなさくや)様  隣の家のダイレクトメールが、一通混じっていたからだ。  部屋番号の数字は一字違いで、家が隣なら郵便受けも隣同士だから、配達人が間違えたにちがいない。 (あの人騒がせな隣人、橘って言うのか)  私信ではなく、家電量販店のダイレクトメールだ。引っ越しの時にでも、何か購入したのだろう。  ぽいと捨ててしまっても問題はなさそうだが、他人宛だと思うと、やはりなんとなく後ろめたい。 (橘 咲弥……ね)  そうこうするうちに、あの時のなまめかしい声までもがよみがえってきた。
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