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一人だけ冷静なのか、神父さんが神々しい声音で促す。
「誓いのキスを」
灘湊一郎さんは心なし、躊躇っていた。
だからだろうか。私の顔を覆っている純白のヴェールをめくりあげる指はあまりにも、あまりにもゆっくりだった。
まるで私を試すよう……。私が逡巡するのなら、いくらでもするがいいと囁いているよう……。そんな長い指、男らしく、やや血管が浮き出た、苦労していながらも手入れを欠かしていない、大きな手……私を不器用にも溺愛してるであろう男性の手の動きは緩慢だった。
が。私は。
華燭の典に乱入し、式を止めようとしている鳴海航さんが見ている目の前で瞼を閉じる。
灘湊一郎さんの……
新郎、灘湊一郎のキスを待った。
しかし灘さんは、時間を置いてから、静かに私の手の甲に、くちびるを落とした。
私を愛してると叫んでいる男性の前で唇へのキスはできなかったのだと思う。
そもそも私たちはキスをしたことがない。額に触れるだけしかない。
なぜなら。
彼……灘湊一郎さんは。
礼儀と慈悲と公正を良しとしている。
だから、私を浚いにきた鳴海さんの前ですら
私にふれることをためらったのだろう。
我に返った人々が急に青空に高く撒き上げ始めたオレンジの白い花、白いライスシャワー、柑橘系の清々しい薫りの向こう、消えていく鳴海航さんの姿……。
(私はあの人が好きだった。多分、好きだった。でも……)
私は。
おじいさまが婚約させていた
地域商社の社長であり、名家の惣領である、灘湊一郎の妻として生きると決めた。
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