魚屋、ときどき卓球

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魚屋、ときどき卓球

 海辺の町は台風が近付くと、魚の匂いでいっぱいになる。  もっとも、他所の町から来た人は台風でなくても魚臭いと顔をしかめたり、落ち着くと言って寛いだ表情を見せたりする。ここで生まれた者にとっては、町の匂いも潮による塩害も、べたついた風も全てが当たり前で、そのささいな変化にも気がつかなくなっている。  祖父の代から魚の粕漬け屋をやっている俺の家では、それこそ生まれた時から周りが魚の匂いで満ちていた。満ちていることにすら気付かなかった。この魚だらけの毎日から逃れたいと思っていた。大人になったら絶対にこの町を出てやるぞ、と。  ところが大人になった俺は、気が付くと店を継いでいた。町を出て家を捨ててまでやりたいことは見つからなかった。自分の心の奥底を見つめると、魚が嫌いなわけでもなかった。  自分の思い一つで技術が向上していく仕事は、自分の怠け心一つですぐに転落していく仕事だとやがて気付いた。  俺は怠け者だ。  自宅の離れに工場を構え、一階奥で粕漬けと味噌漬けを製造した。大きな石臼に味噌や粕と砂糖や香辛料を加えてぐるぐるかき混ぜる。それを魚に塗りつける。毎日はその工程の繰り返しだ。     
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