宿屋にて

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宿屋にて

 多聞はかなりの面倒くさがりだ。  放っておけば衣食住は適当、髭も髪も不都合が出るまで伸ばしっぱなし、仕事を依頼してきた相手の話を聞く時ですらどこか締まりのない雰囲気を漂わせていることがある。ただそれらが表情にはあまり出ないので、多聞を見慣れている人間でないと彼の微妙な変化を見抜くことはできない。  そんな多聞は、風呂に入るのも億劫(おっくう)がることがある。  仕事が一段落着いた時にはむしろ積極的に入るし、旅先で民家に泊めてもらえた時なども厚意で用意してもらった風呂を嫌がることはないのだが、旅先で宿に泊まるとなぜか一郎にせっつかれるまで入ろうとしない。いつも宿に入るなり荷解きもそこそこに横になり、遠慮のえの字もなくぐうぐうと寝始めてしまう。  そしてまた今日も多聞は宿に部屋を取るなり畳の上に大の字に寝っ転がり、小さく口を開けてくかーと間の抜けた寝息を立てている。 「多聞、おい多聞、もう夜だぞ。飯の前に風呂入って来い」  声をかけてゆさゆさと肩を揺さぶるが、ぴくりともしない。  長く続いた一人旅のお陰か、多聞は眠っている時でも意識の一部を起こしたままでいられるという。それゆえに野宿をしている時の多聞は眠りが浅く、一郎には気づけないほど微かな物音、震動でさえ目を覚ますというのに、宿でのこの無防備っぷりはどうだ。  いくら野宿よりも安全な宿の中とはいえあまりに無用心にぐっすりと寝入ってしまうので、一郎は以前「宿ではいつもこんなに眠りが深いのか」と尋ねたことがある。それに対する多聞の返答は「ここまで眠りが深くなるようになったのは一郎を連れて旅をするようになってからだ」というものだった。一人ではないから安心してゆっくり眠れるのだと、直接そうとは言われなかったものの、どうやらそういうことらしい。  多聞のそんな発言一つで馬鹿みたいに浮かれている自分が、一郎は我ながら滑稽(こっけい)だった。  それでも嬉しいものは嬉しいのだからどうしようもない。 「おい、多聞、おい」 「んむ」 「多聞、起きろ」 「う……んん、んー――くそお、なんだよ一郎、もうちょいで眠れるところだったのに」 「なんだそれは」  まさか夢の中でも寝ようとしていたのか。  どれだけ寝ることが好きなのだと憮然として見下ろせば、一郎に揺り起こされてうるさげに薄目を開けた多聞が射殺しそうな目で睨んでくる。もとい、見上げてくる。  しかし今更そんな視線でたじろぐ一郎ではない。 「多聞、あんたも風呂に入ってこい。風呂が閉まる前に。でもあまり長湯し過ぎるなよ」 「風呂お? めんどく」 「少し臭うぞ」  面倒くさいと皆まで言わせずに言葉を重ねると、多聞はぴたっと口を噤んで、それから大きく息を吐いた。のっそりと起き上がり、着替えの浴衣を片手にいかにも大儀そうに部屋を出ていく。  障子を閉める際に据わった目で睨まれた。今度はしっかりと睨まれた。臭うと言って多聞が動じる時は、本人もちょっと気にしている時だ。わかりにくいが、多聞のあれは怒っているのではなく多分拗ねている。普段の彼は飄々(ひょうひょう)としていて掴みどころがないのに、たまに今みたいに妙に素直な時があって、そういう時は自分よりも十も歳上の男だというのに一郎はやたらと可愛げめいたものを感じてしまう。 「気にしてるんだったら風呂くらい素直に行けばいいのにな」  まったくものぐさで困る。そう呟く一郎の頬は知らず緩んでいた。  一郎は多聞の世話を焼いているとたまに甥の孫七の面倒を見ているような錯覚に陥ることがある。まだ多聞と出会う前、家族と共に暮らしていた時分は甥も小さかったので、なにかと手がかかった。年端もいかない子供と三十路も半ばを過ぎた多聞の印象が被るのはさすがに複雑なのだが、あれでも一郎が専属の助格になる前は問題なく一人で生活できていたはずなので、ああして多聞がだらけた姿を見せるのは彼なりの甘えなのだろう。少なくとも一郎の師であり多聞にとっては友人でもあるアタラに対して、多聞があそこまでだらけた姿を見せることはない。 (なんというか、あれだな。容易には近づきがたい迫力の虎が俺だけに腹を見せて懐いているような、そういう気分だ)  つらつらと考え込んでいたらただでさえ緩んでいた頬がますます脂下(やにさ)がり、そんな自分に気づいて一郎ははっとなった。 「喜んでどうする」  だらけられて喜ぶなど悪趣味としか言いようがない。こんなことで浮き足立っていると多聞に知られようものなら、またにたにたと意地の悪い笑みを浮かべてからかわれる。そういう時の多聞はまったくもって鬱陶(うっとう)しいのだ。  一郎は僅かに熱を持った頬をパンッと叩き、気を散らすべく荷物の整理を始めた。 「――多聞、俺は嘆かわしい」 「はあ」 「嘆かわしいぞ本当に」 「はあ」  気の抜けた相槌ばかりを返す多聞に、一郎はガミガミと苦言を呈する。 「風呂に行く前、長湯し過ぎるなってちゃんと言っておいただろうが。一時間以上も熱い湯に浸かりっぱなしでいたら逆上せるなんてことはわかりきっているだろうに。人の話を真面目に聞かないからこういうことになるんだぞ」 「一郎は相変わらず手厳しいな」 「手厳しくない、至って真っ当な意見だ。宿の人にまで迷惑をかけて」  真っ赤に火照った顔を濡れ手拭いで冷やし、足の下に枕を差し込んで横たわる多聞を団扇(うちわ)で扇ぎながら、一郎はどうしても険しく寄ってしまう眉間を押さえてこれみよがしに嘆息した。  風呂に入りに行った多聞を見送ったあと一郎は少し転寝(うたたね)をした。いくら若いとはいえやはり一郎も旅の疲れが出たらしく、目覚めてみると一時間弱ほども経っていたが、おかしなことに多聞が戻ってきた形跡がない。なんとなく嫌な予感がして風呂まで様子を見に行こうとしたら、宿屋の人間が真っ赤になった多聞を抱えて部屋にやってきた。仰天して話を聞くと、どうやら長風呂をしていて逆上(のぼ)せているのを風呂掃除をしに来た宿屋の人間に発見されたらしい。 「多聞が風呂で逆上せたのは俺が一緒に旅をするようになってもう三度目だ。大体あんたは風呂嫌いなんじゃないのか。それなのにどうして一度入ったら茹だるまで延々と入っているんだ」  そう、実は多聞が風呂で逆上せるのはこれが初めてではないのだ。多聞は風呂に入るまではうだうだやって時間がかかることが多いが、そのくせ一度入るとやたらと長いこと浸かっている。民家に泊まる時はそれでも適当な時間で切り上げるのだが、宿屋に泊まると最低でも一時間は出てこない。そしてたまに逆上せる。 「俺は別に風呂が嫌いなわけじゃねえぞ。むしろ好きだ。さっぱりするからな」 「じゃあなんでいつも入るまでに目一杯渋る」 「一度横になるとどうも尻に根っこが生えちまってなあ。ほら、風呂は入るまでに色々と面倒な手間があるだろ。起き上がるとか、風呂場に行くとか、着物を脱ぐとか。寝たまま風呂に入れれば最高なんだが」 「……あんたはいくつだ」 「三十六」  はーと長々とした嘆きが漏れた。誰かこの三十六歳児をなんとかしてくれ。 「やっぱり俺も風呂についていけばよかった」  多聞が本当に二つ三つの子供だったら一人で入浴などさせないのだが、いくら素行が子供と同程度だったとしてもさすがに己よりも年嵩(としかさ)の男に対して幼児に接するのと同じ態度を取るわけにもいかず、一郎としても悩ましいところだった。一郎自身が多聞より先に風呂を済ませてしまっていたのも失敗だった。こんなことになるなら眠っている多聞を無理やりにでも起こして一緒に風呂に連れていけばよかった。 「目が回る」  唸った多聞は額に当てていた手拭いを(だる)そうにひっくり返す。体が火照っているので肌に接している面がすぐにぬるくなってしまうのだろう。一郎は手拭いを取り上げると宿の人間から借りた(たらい)の水に浸して、ぎゅっと絞り、多聞の額から目の上を覆うようにして顔に乗せた。 「あー冷っこい」 「まだ熱が引かないな」 「茹でられたタコの気分だ」  そう軽口を叩くが、実際に多聞の全身は茹でたタコのように真っ赤だ。一郎は顔をしかめるともう数枚手拭いを水に浸して水気を絞り、そのうちの一枚で多聞の首筋を拭いた。 「うっひゃ、びっくりした」 「体の方も冷やした方がいいだろう」 「ああ、うん。……どうも」 「珍しく殊勝(しゅしょう)だな」 「俺だって気まずく思う時くらいあるぞ」  やれやれと思いながら一郎は多聞の浴衣の合わせを広げ、残りの濡れ手拭いを両脇の下に差し込んだ。冷たかったのだろう、またもや多聞が「ん」と声を上げて身動(みじろ)ぐ。その声がやけに艶っぽく響き、一郎はどきりとして動きを止めた。 (……赤い)  無防備に浴衣をはだけた多聞の胸許も、引き締まった腹筋も、首筋も頬も、その全身が熟れた桃色に染まっている。逆上せた多聞を慌てて介抱している時には意識していなかったその事実に一度気づいてしまうと、途端に胸が早鐘を打った。  多聞は酒に強く、どんなに飲んでも顔色はほとんど変わらない。多聞と酒を飲むといつも一郎の方が先に酔い潰れて多聞に介抱される羽目になっていて、一郎はそれを密かに悔しく思っていた。  今の多聞の姿は、まるで酒に酔っているかのようだ。  一郎はごくりと唾を呑み込むと盥に手を浸し、あっという間にぬるくなった首筋の手拭いを外して、濡れた手でそこに触れた。 「んん、冷てえ」 「……脈が速いな。どくどくしてる」 「気持ちいい」  多聞がほうと心地よさげな息を吐く。一郎は小さく上下した多聞の裸の胸許に視線が釘付けになった。胸筋の上にぽつっと色づく二つの突起。男の乳首など多聞に出会う前はまったく意識することなく目にしていたものだし、今でも他の男の乳首なんてどうでもいいが、多聞のそこだけは別だ。もはや一郎にとって多聞の乳首は見ているだけで欲情を煽られずにいられない部分になってしまっている。  今は滑らかに落ち着いている胸の粒は、一郎が指先で擦ったり(つね)ったりすると芯を持ち、ぴんと硬く勃ち上がってひどく敏感な様子を見せる。多聞はそこをしつこく舐め回して吸い上げると次第に一郎が触っただけで体をびくんと波打たせるようになり、時には自分から「もっと強く噛め」と求めてくるのだ。それをされるともう一郎の理性は保たない。摘んで噛んで押し込んで、多聞がそこで射精に至るまで解放することができなくなる。多聞と公私共に深い仲になってから知ったのだが、どうも自分は少々ねちっこい気質があるらしい。  筋肉の隆起があるとはいえ、多聞の胸はどう見ても男の胸だ。それなのにそこから目が離せない。じっと見ていると多聞のあられもない姿をどんどんと思い出して、逆上せてもいないのに体が熱くなってくる。 (そういえば夏頃に川の中でしたことがあったな。あれは……よかった。肌も髪も濡れた多聞はなんだか妙にいやらしくて、足元が岩場で危うかったから俺にしがみついてきて。日頃の余裕のある多聞もいいが、ああやって焦ってしがみついてくる多聞はこう、なんだ――すごくいい。って、なにを考えているんだ。相手は病人だぞ)  一郎はぱっと多聞の首筋から手を離し、ざぶざぶと荒っぽく手拭いを水に浸してまた首筋を冷やした。再び団扇を持って扇ぎ出す。なにか別のことを考えなくては駄目だ。このままではまずい。  逆上せて苦しいのは多聞なのに、一郎はその傍らで、多聞のそれとは違う火照りに苦しめられる。顔を覆う手拭いから覗く多聞の唇に吸いつきたい。その胸許にしゃぶりつきたい。病人の横で病人を相手に、不謹慎にもほどがある。 「……今度から風呂は俺と一緒に入れ」  身の置き所がなくて気を紛らわすようにぼそっと言うと、一郎の内情など知らない多聞は不思議そうに僅かに首を動かした。 「なんでだ」 「この状況でそれを聞くか」  多聞がなにも聞かなかったと言うように首を元の位置に戻す。 「多聞、たかが逆上せと思うかも知れないが、それだって体に悪いんだぞ。なにかあってからじゃ遅い」 「はあ。まあ風呂くらい別にいいんだけどよ」  多聞は何事か思案するように煮え切らない返事をしたあと、「そっち次第だな」と言った。 「俺次第?」 「そう。お前さんが俺をやらしい目で見んのを抑えられるってんなら一緒に入ってもいいぞ」 「お、俺がいつそんな目で見た」心外だと着物の股間部分を膨らませた姿で声を上ずらせると、おもむろに多聞の手が動き、ひっそりとやる気を滾らせていた一郎の息子を驚くべき的確さで捕らえた。 「うっ」 「この状態でそんなこと言われてもなあ」 「ば、馬鹿揉むな、くそ、どうしてこうなってることがわかった」 「さてどうしてかね。一郎、前に俺と風呂やら温泉やらに入った時、何度かここ隠しながらこそこそ風呂場を出てったことがあっただろ。あれだいぶ目立ってたぞ。お、またでかくなった」 「だから揉むな!」  多聞と旅をし始めた当初は、たしかに一緒に風呂や温泉に入ることが度々あった。まさかあの時風呂場で劣情を催していたことが多聞にバレていたとは思わなかった。先に風呂から上がると言った一郎に、多聞は「おう」と適当に手をひらひらさせただけで、気づいているような素振りなど全然見せていなかったのに。しかも〝目立っていた〟ということは周りにいた客にも勘づかれていたということか。とんだ赤っ恥である。  遊んでいるみたいな気安い調子で重たく下がったタマまで揉み込まれ、それまで拳を握り固めて快感に耐えていた一郎は、辛抱堪らなくなって多聞の手を掴んだ。  多聞は自由になる方の手で目許の手拭いをちょっとずらし、隙間からにやっと一郎を見やる。 「そっちこそ逆上せちまってんじゃないのか。いい塩梅(あんばい)の茹でダコだぞ」 「…………」  多聞はにやにや笑いながら目許の手拭いを取って「濡らしてくれ」と差し出してくる。むっつりと押し黙ったまま言う通りにすれば、自分で目許と額に手拭いを乗せた多聞はぽんぽんと一郎の膝小僧の辺りを叩いた。 「ま、俺も長湯し過ぎないように気ぃつけるさ」 「……本当に気をつけてくれよ」 「わかってるって。ありがとよ。体が戻ったらそっち(、、、)の相手もしてやるから、いい子で待ってろ」  果たしてからかわれているだけなのか。それとも心配をかけたことを少しくらいは反省しているのか。多聞の言い方は軽過ぎて、いまいち判然としない。 「その言葉、信じるからな」  だから一郎はとりあえず自分の願望通りに解釈することにした。  信じられてしまった多聞はそれ以上はなにも言わなかったが、代わりのように口許に苦笑の気配を漂わせる。 「早くよくなれ」  我慢できずに屈み込み、笑んでいる唇に素早く口付けを落とすと、一郎は多聞を扇ぐ手に殊更(ことさら)に力を込めた。
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