01 豆の樹

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01 豆の樹

 (まさ)()(がい)の朝は遅い。  ことに昼の二時など、まさに眠りのピークである。ゆえに、その電話の相手は留守番電話のメッセージがした。 『お休み中のところ申し訳ありませんが』  ピーという発信音の後、よく通る青年の声がスピーカーから流れてきた。 『緊急の用なんです――と言ってもあなたは起きませんね。単刀直入に言います。私のご主人様が、かつてなかったようなピンチに陥ってるんです。それもあなたのせいでね。あなたなら何とかできます。さっさと起きて、とっとと〝豆の樹〟まで来てください。では、お待ちしております』  それまで、正木は枕に顔を埋めたきり、身動き一つしなかったが、いきなり起き上がって、電話機に向かって叫んだ。 「こんちくしょー!」  しかし、彼は結局、今朝ベッドの周りに脱ぎ散らかした服を拾い上げ、あわてて着替えはじめたのだった。  *** 「意外と早かったですね」  不機嫌きわまりない顔をして、喫茶店〝豆の樹〟のドアをくぐってきた正木を、窓際の席の美青年がにこやかに微笑んで迎えた。  まるで人形のような整いようである。栗色の髪はさらさらで、白い肌には傷も黒子(ほくろ)もひげ跡もなく、着ているスーツはブランド物。そこらの芋モデルなど目ではない。  だが、正木は寝起きの不機嫌さも手伝って、いつもより険悪にこの青年を睨んだ。正木は、着古したシャツとジーンズに、くたびれたスニーカーをつっかけているだけである。 「何の用だ。くだらねえ用だったらぶっ飛ばすぞ」  挨拶の言葉など当然出るはずもなく。正木は青年の向かいに座ると、傲慢にそう言ってのけた。 「はっはー。やっぱり怒ってますね」  まったくすまなそうになく、青年は愛想よく笑った。正木はテーブルをひっくり返したくなる衝動を、腕を組むことによって、かろうじて抑えこんだ。 「何の用だ」  もう一度、しかし、今度はよりいっそう低まった声で正木は訊ねた。彼は自他ともに思いきり首を縦に振って認めるほど気が短い。 「電話で言いましたでしょう」  ききわけのない子供をたしなめるように、青年は言った。 「私のご主人様――若林(わかばやし)博士が窮地に立たされているんです。あなたにはそれを助ける義務があります。もともと、みーんなあなたが撒いた種なんですからね」 「何のことだ?」  ようやくこのテーブルに回ってきたウェイトレスに、無造作にコーヒーと注文した後、正木は大仰に眉をひそめた。青年の前にはすでにコーヒーカップがあるが、中身はまったく減っていない。  ウェイトレスは、青年と正木とをうっとりと眺めていたが、正木に横目で睨まれて、あわてて立ち去った。寝起きの正木はとかく機嫌が悪い。普段なら、女性にはとても愛想がいいのだが。 「(かわ)()博士。……ご存じですよね?」  青年は少し笑みを減じた。 「K大の准教授の川路なら知ってるが。そいつのことか?」 「そうです。若林博士の同僚で、あなたの元同僚でもあります」  正木は渋い顔をして青年を睨むと、彼の分のコーヒーを奪って飲んだ。 「で、あいつが?」 「あなたの〝遺産〟を見せろと言っています」 「……何だと?」  青年のセリフを聞き流そうとしていた正木は、片眉を吊り上げて彼を見た。 「つまり、あなたが今年の三月にK大を辞職したとき、若林博士に譲っていった論文その他いっさいがっさいを、K大の共有財産として公開せよと迫ってきたんですよ」 「ふざけるな!」  正木はコーヒーカップを叩きつけるようにテーブルの上に置いた。周囲の客の目がいっせいに正木に集中する。 「俺は俺のものを俺の意志であいつにやったんだ! 川路の野郎なんかにんなこと言われる筋合いはねえよ!」 「はい。私もそのとおりだと思います」  生真面目に青年は同意した。 「じゃあ、何が問題なんだ?」 「川路博士は、一つの条件をつけてきたんです」 「条件?」  そのとき、ウェイトレスがおずおずと、コーヒーを届けにきた。正木は礼がわりに軽く手を上げてから、砂糖もミルクも入れずにぐいと飲んだ。 「ええ。――あなたは、スリー・アール社のロボットコンテストのことはご存じですか?」 「ああ、あの俗悪なやつな。知ってるが、それが?」 「ええ、来月開かれるそれに、若林博士と川路博士がそれぞれロボットを出品して、若林博士が優勝すればよし、もしも川路博士かあるいは他の方のロボットが優勝したら、あなたの〝遺産〟を公開するようにと」 「何だよ、そりゃあ!」  あまりの理不尽さに、正木は思わず声を上げた。 「それじゃ、あいつが優勝しないかぎり、あれを公開しろってことじゃねえか! んなふざけた話があるかよ! もちろんあいつは、そんな馬鹿な奴は相手にしなかったんだろうな?」  青年は答えず、複雑な笑みを浮かべる。 「おい……まさか……」 「はい。……そのまさかです」 「バッカ――」  ヤロウと正木は叫びかけたが、急に力を失って、コーヒーをすすった。 「あなたがからむと、冷静じゃいられなくなるんですよ、若林博士は」  苦笑しながら青年は言った。 「でも、そいつにはおまえが出るんだろ?」  正木は気を取り直して口を開く。 「俺としては、あんな低俗なとこに出てもらいたくはねえけどさ。おまえが出るんなら、どこのだって相手じゃない。楽勝だろ」 「はあ……」  青年は曖昧に笑い、肩をすくめた。 「優勝するかしないかはともかく、私はそのつもりだったんですが……」 「まさか――」 「はあ……」  軽く青年はうなずいた。 「今、もう()()、作ってます」 「ぶうぁくうぁやろぉ……」  今度こそ正木は最後まで言ったが、それはいっこうに力の入らないものだった。 「私も、わざわざそのために作らなくてもと言ったんですが」  困ったように青年は笑った。 「おまえだけは、あんなとこに出したくないんだって言われちゃいました」 「……だろうな」  その一瞬だけ、正木は実に嬉しそうに表情をゆるませた。それをまた青年が嬉しそうに見つめる。  だが、正木はすぐにまた元の仏頂面に戻ってしまい、そっけなく言った。 「で? おまえは俺に何をしろっていうんだ?」 「若林博士のお手伝いをしてください……なんてことは申しません」  青年はにっこり微笑んだ。   「この馬鹿げた勝負自体を、無効にしていただきたいんです。あなたがご自分でおっしゃったように、あれはあなたがあなたの意志で、若林博士に譲ったものなんですからね。ただ、惜しむらくは、正式な譲渡状というものが存在していない。だから若林博士も、あれがあなたから譲られたものだという証明ができなかったんです。そこでですね――」 「わかった、わかった」  うんざりして正木は遮った。 「書類を作って、奴らの前でそう言やー、事はおさまるんだろ? しかし、川路の野郎、いったいどこから嗅ぎつけてきたんだ? 〝何でも屋〟の俺の研究なんて、奴の役に立つとは思えねえけどな」 「そんなことは、どうでもいいのかもしれませんよ」 「え?」  コーヒーを口に運ぶ手を止めて、正木は訊き返した。 「じゃあ、何でだよ?」 「私も一つ、あなたにお訊ねしてよろしいですか?」  正木の質問には答えず、青年はテーブルの上で両手を組むと、にっこり微笑んだ。 「あなたはなぜ、若林博士にあれを託されたんですか? 若林博士も川路博士と同じく、ロボット工学が専門ですよ?」 「そ、それは……」  返す言葉をなくして、正木は黙ってコーヒーを飲みつづけた。  理由がないわけではない。ただ、それを素直に口にできるほど、正木は正直者ではなかったし、かといって、あたりさわりのないことを言えるほど、嘘つきでもなかったのである。 「困ってますね」  青年は面白そうに正木を下から覗きこんだ。 「まあ、それは今は無理にお訊きしません。それより、今から我が家へいらっしゃいませんか? 今度出品する新作がごらんになれますよ」 「あ、ああ……」  思わず正木はうなずきかけたが、はっと我に返って、あわてて首を横に振った。 「俺はもうあいつには会わない。――そう決めたんだ」 「もう何度もお訊きしてますけど……本当に、何があったんですか?」  正木はまた答えに困り、コーヒーを一気に飲み干して立ち上がった。 「何もねえよ。ここの払いは、当然おまえがしろよ、(ゆう)()」 「ちょっと! 話はまだ終わっていませんよ! いったいどうやって二人に言うつもりですか!」  青年――夕夜は、あわてて椅子から立ち上がり、もう出入り口から出ていこうとしている正木の背中に向かって叫んだ。 「おまえに任せる。俺は今、とにかく眠くてたまらねえ」  肩ごしに正木はそう言い捨てると、さっさと十月の街の中へと戻ってしまった。 「まったくもう……! いつも勝手なんだから……!」  テーブルの上の伝票をつかんで、怒るというよりは呆れたように夕夜は呟いた。  そんな夕夜に、ただでさえちらちらと視線を向けずにはいられなかった客や店員たちは、嫌でも本格的に注目せざるを得なかった。  夕夜のテーブルにコーヒーを運んだウェイトレスも、夕夜を見ながらひそひそと、こんなことを仲間と囁きあっていた。 「今出てった長髪の人、お兄さんかなんかかなー。よく似てたよねー」 
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