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02 若林宅・正木宅
若林修人の朝は早い。
日曜の昼一時には、当然起きていた。
ちょっと街まで買い物にという理由で家を出た夕夜は、正木と別れた後で物的証拠作成のため百貨店に行き、夕方、何食わぬ顔で帰ってきて夕飯の用意をした。献立は若林の好きな湯豆腐である。
夕夜の内線電話を受け、地下の作業室から一階のダイニングに移動してきた若林は、湯豆腐を食べる前にぼそりと言った。
「正木に会いにいったな」
「いつも不思議に思うんですが、何でわかるんですか? 何か匂いでもついてますか?」
内心、また今度もばれるだろうなと思っていた夕夜はまったく動揺せずに問い返した。
現法では、夕夜のような自律型ロボット――一般人にはアンドロイドと言ったほうがわかりやすいだろう――は、人間の付き添いがなければ戸外には出られないことになっている。が、そもそも自律型ロボットの数自体が非常に少ない。かの有名なロボット工学三原則の出番もないくらいだ。
さらに、夕夜は人間と見分けがつかないほど精巧にできている。そのため、若林も夕夜も平然と法律違反を犯しつづけていた。
「そんなことはどうでもいい」
最近あまり機嫌のよろしくない若林は、ロボット工学者としては希有なほど整った顔を険しくさせた。
「何しにいった? まさか、今度のことを話しにいったんじゃないだろうな?」
「違いますよ」
すぐに否定されるだろうと思いながらも一応そう言ってみる。
「ちょっとご機嫌伺いにいっただけですよ。ちょうどアパートにいらしたので助かりました。気ままな人ですからね、捕まえるのに苦労します」
「……それだけか?」
そら来た。
夕夜は満面の笑みで、もちろんそうですよと答えかけたが。
「変わり……なかったか?」
「え?」
「正木は……元気だったか?」
常にない主人の問いに、一瞬、夕夜はあっけにとられたが、何でもないことのように「ええ」と答えた。
「相変わらず、昼寝て夜起きる、ドラキュラみたいな生活をしているようですが。でも、元気そうでしたよ」
「……そうか」
満足そうにそう言うと、若林はもうそのことについては訊ねてこなかった。
(本当に、正木博士には知らせないつもりでいるんだな)
そのときは若林には見えないようにこっそり溜め息をついた夕夜だったが、湯豆腐をよそった器を渡すとき、思いきって訊いてみた。
「実際のところ、作業はどこまで進んでるんですか?」
「全身はできた」
豆腐に息を吹きかけるのを中断して若林が答える。
「あとは中身だな」
「まったくもう……期日まで一ヶ月しかないのに無茶するんだから……」
ぶつぶつと夕夜は文句を言った。
若林家の食卓には常に一人分の食事しか用意されないが、一人で食べるのは寂しそうなので、夕夜もテーブルにはつく。
「いや、どうせ近いうちにもう一人作るつもりだったし、それが早まったと思えば……」
「あんな理由でですか?」
眉をひそめて冷ややかに若林を睨む。
「あんな条件を出してくるほうも出してくるほうですが、受けるほうも受けるほうです。あんな言いがかり、無視すれば済んだことじゃないですか」
「だから、それはな……」
作り笑いをして若林が言い訳するのを、夕夜はすかさず遮った。
「はいはい、わかってますよ。ついカッとなっちゃったんでしたね」
「……ほんっとにおまえは辛辣だな……」
ほとほと弱りきったように若林はぼやいた。外では寡黙で冷静沈着な男として通っている若林も、夕夜にはかたなしである。
「回避できることに真正面から突っこまれたら、誰だって辛辣にもなります。もし優勝できなかったら、いったいどうするつもりですか?」
「そうだなあ……」
豆腐を箸でつつきながら若林は呟いた。
「日本出て、外国にでも行くかあ……」
――すっかり姿勢が後ろ向きになってるな。
ここのところ、突貫作業が続いている主人に同情しつつも、やはり自業自得だと思わずにはいられない夕夜であった。
そもそも、今回、若林に挑戦状を叩きつけてきた川路智洋博士なる人物は、日頃から何かと若林を敵視していた。
川路も決して無能なわけではない。ロボット工学の分野において、それなりの業績を挙げている(が、若林は〝教授〟で、川路は〝准教授〟である)。
同僚という点では、正木も川路と同じであるが、正木はロボット工学以外にも足を突っこんでいたから、若林とは純粋な意味でライバルではなかった。第一、正木も若林も、それぞれ違った理由で、相手が自分のライバルなどとは認識していないはずである。
ゆえに、若林にとっては、川路こそ真のライバルであると言えたのだが、当の本人はそんなこと、まったく考えてもいなかった。というより、正木の存在が大きすぎて、川路のことなど目にも入っていなかったのだ。
そんな若林に川路が敵意を抱くのも当然といえば当然といえよう。彼は先月末、若林が正木の〝遺産〟を譲り受けていることをネタに、例の勝負を挑んできた。
その場に夕夜がいたなら、断じてそんな馬鹿げた勝負など受けさせたりはしなかったのだが、若林は正木の名前を出された時点で切れていた。これがこのロボット工学の若き権威の最大の弱点だった。
――わかりました。受けて立ちましょう。
若林がそう答えたということを本人の口から知らされたとき、夕夜は起こすはずのない目眩を起こしそうになった……
「まあ、無理はしないでくださいね」
しっかり健康管理はしているものの、やはり疲労の色は隠せない若林を、湯豆腐の湯気ごしに見やる。
「どうしても間に合わなければ、私がいるんですから」
すると、若林は黒目がちのきつい目で、キッと夕夜を睨みつけた。
「おまえだけは、どんなに間違ったって、あんなとこには出さない」
今までの態度が嘘のように、若林は強い口調で言った。
「おまえは売り物じゃない。ずっと俺の手元に置いておく」
「はいはい」
苦笑まじりに夕夜は微笑んだ。
そんな主人の言葉はもちろん嬉しかったが、その一方で、どうしてこの顔のオリジナルにはもっとましなことが言えなかったんだろうと、今さらながらまた思わずにはいられなかった。
***
一方。
正木は夕夜と別れてから、まっすぐ自分のアパートに戻り、ベッドにあおむけになって考えていた。
――川路智洋。
もちろんその男のことは知っている。知っているが、正木にとってはさして重要な人間ではなかった。若林ができないことは川路にもできなかったし、川路ができないことは若林にはできたからだ。
(関係ねえのにな、あいつなんか)
思い返して、正木はまた憤然とした。自分は若林にやりたいと思ったからやったのだ。そのことで他人にとやかく言われる筋合いはない。
(あー、畜生、むかついてきた)
知性と品性とは必ずしも一致しない。正木は跳び起きると、デスクで愛用のパソコンを立ち上げた。
(〝スリー・アール〟……か)
新興のロボットメーカーの一つである。
近年、ようやく人間に近いロボットが作れるようになったものの、その価格はまだまだべらぼうに高い。いちばん最低でも三百万はするという代物である。しかし、どの時代にも物好きはいて、実際、ロボットを購入しようとする者は、国内外を問わず跡を絶たなかった。
たいていの場合、コンテストの主催者は、スリー・アールのようなロボットメーカーである。自社のロボットはもちろん、他社、大学、研究所、アマチュア(これはごく少数だが)からも参加を募り、開催する。
だが、正木はこのロボットコンテストというものを生理的に好まない。ことにスリー・アールのコンテストはバラエティーに富んでいるぶん、見世物興業と化しているところがあった。こんなところに夕夜を出すなど、とんでもない話である。
幸い、若林もそう思ってくれていたようだが、それでも若林の名を冠するロボットがあんなところに出品されるのだと思うと、腹立たしくてたまらない。たまらないので、ついネットでそのコンテストのチケットを購入してしまった。その前にそんな馬鹿馬鹿しい勝負はやめるよう、若林たちを説得することになっていたのだが。
(川路の野郎、覚えてろ! 俺を無視してあれを公開しろだの何だのほざきやがって! 会ったら絶対一発ぶん殴ってやる!)
黙ってさえいれば凛々しい美女でも通りそうな天才博士は、力いっぱい拳を固めて、安っぽい天井を睨みつけるのだった。
そもそも、正木がK大を辞めることにしたのは、学内の人間関係が煩わしくなってきたからだった。
他の大学に比べれば、正木はかなり自由にやらせてもらったほうだが(何しろ、この正木が〝教授〟になれたのである)、こればかりはどうしようもなかった。
あわてふためく学部長に辞表を押しつけた後、正木は若林の個人研究室に行って、彼に自分の研究資料をもらってくれるよう頼んだ。
「邪魔だと思ったら、焼くなり捨てるなり好きにしてくれ」
そう言って、正木は自宅マンション(辞職後しばらくして引き払った)とは別に資料置き場として借りていた現在のアパートの鍵(こっそり作った合鍵)を若林に渡した。
「ただ、人にやるのだけはよしてくれ。俺はおまえにあれを始末してもらいたいんだ。――ま、どうせ後のことなんか、俺にはわからないけどさ」
「ちょっ……ちょっと待ってくれ!」
渡された鍵を正木に突っ返して、若林は叫んだ。
「おまえ……ここを辞めるのか? どうして? 何があった?」
「別に、何もあっちゃいないけど……」
若林の狼狽ぶりにつられて、正木もどぎまぎした。
「ただ、ここでできることはもうあらかたやっちまったしな。もう辞め時だと思って」
「……辞めた後、どうするんだ?」
冷静さを取り戻した若林が、そう訊ねてきた。
「そうだな……しばらくぷらぷらしてる。貯えも少しはあるし」
「――そうか」
寂しげに若林は笑った。正木を引き止めることなど、最初から考えてもいないようだった。
顔には出さなかったが、正木はがっかりした。なぜこの男はまったく引き止めようとしてくれないのか。どうしてもというなら、考えを変えないわけでもないのに。
「じゃ……元気でな。ところで、この鍵はどこの……?」
「俺が資料置き場にしてるアパートの鍵。住所は夕夜が知ってる」
「……何で?」
「いや、まあ……とにかく、なるべく早いうちに取りに来てくれ。何なら、宅配便にしておまえんちに送ってもいいが……」
「どうしてだ?」
鍵を握りしめながら、心底不思議そうに若林は言った。
「どうして俺にそんな大事なものを寄こす? おまえの財産みたいなもんだろ?」
「どうしてって……俺にはもう必要のないもんだし……」
ためらいながら正木は答えた。もちろん、これは本当の理由ではない。必要がなければ、自分で処分してしまえばいいだけのことだ。
ただ――何でもいいから、若林に自分のものを持たせたかった。
彼に、忘れられないために。
「だからって俺に託されても……俺じゃ宝の持ち腐れってやつだし、それに俺は――」
このあと、若林は何と言うつもりだったのだろう。正木はロボットの指がきちんと動くかテストする前よりも緊張して――あるいは期待して――続く言葉を待ったが、そんな正木と目が合ったとたん、若林は口をつぐんでしまい、結局、頬を掻いてそっぽを向いてしまった。
「何だよ? 何言いかけた?」
じれったくなって、正木は促した。
「いや、何でもない」
だが、若林は正木から目をそらせて、口早にそう答えただけだった。
そんな若林の態度を見て、正木は無性に腹が立った。どうしてこの男は肝心なことになるといつもこうなのだろう。そして、このとき正木は決意した。
――この男とは、もう二度と会わない。
「じゃあな」
思いきりそっけなく正木は言った。
「おまえも元気でな。夕夜によろしく」
「あ、ああ」
あわてて答えた若林の声を背中で聞いて、研究室のドアを閉めたのが最後。
それ以来、正木は本当に若林と一回も会っていない。
そのかわり、夕夜とはちょくちょく会う。別に正木は会いたくないのだが、一週間に一度は外に引っ張り出され、こちらが訊ねもしないのに、若林の近況などを報告される。
どうやら、夕夜はそれを自分の義務だと勘違いしているらしい。正木にはいい迷惑である。公言はしなかったが、若林とはもう縁を切ったのだから。
(でもまあ、今回は俺のしたことが発端だから、責任は負うけどさ)
ぶつぶつと心の中で呟きながら、正木は手を動かしつづけた。
(それだって、あいつが相手にしなけりゃそれで済んだことじゃねえか。馬鹿野郎、やっぱあいつも一発ぶん殴ってやりたい!)
自分のしたことはすべて棚のはるか上方へと放り投げ、正木は文句をたらたらこぼしつつも、せっせと情報収集にいそしむのだった。
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