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04 川路宅
その朝、川路智洋宅に一本の電話がかかってきた。
それにはいつものように〝彰〟が出たが、すぐにテーブルで新聞を読んでいた川路を振り返った。
「先生、お電話です」
「誰から?」
「正木博士からです」
「――フルネームは?」
若林であれば驚きのあまり新聞を破っていたところを、川路はぐっとこらえて冷静に問い返した。それに彰が川路を上回る冷静さで答える。
「正木凱博士です」
川路は彰の手から受話器を奪い取り、がばっと耳に当てた。
『正木だ』
川路が言う前に、あの冷然とした低い声が言った。
「あ……」
何か言おうと思ったが、とっさには何も出てこない。とりあえず、これだけは言った。
「川路だ」
『来月、スリー・アールのコンテストに参加するんだってな、若林と』
何の挨拶もなく、いきなり正木はそう切り出してきた。
『で、それで若林が優勝できなかったら、俺があいつにやった研究資料を公開するって、そういうことになってるんだってな』
川路は何も言えなかった。いったい誰が正木にあのことを知らせたのだろう。若林なら絶対そんなことはしないと踏んでいたのに。
『今はあいつのとはいえ、もともとは俺のもんだ。その俺に何の断りもなしにそんなことを決めるなんて、あんまり薄情じゃないか?』
皮肉をふんだんに含みながらも、あくまで正木の声は穏やかなままである。
――そう、それだけに恐ろしいのである。こういうときの正木は。
『でも、その勝負自体は面白そうだ。俺の研究資料の公開うんぬんはともかく。そこでだ。どうせ勝負するんなら、もっと公平にしろよ。早い話、俺もその勝負に一枚かませろ』
「……何?」
戦々恐々としていた川路は、予想外の正木の言葉に唖然となった。
『今日、昼の十二時、K大のロボ研まで来い』
高飛車に正木は言った。
『コンテストに出すロボットのプログラムを渡してやる』
電話が切れても、川路は受話器を握ったまま、しばらく茫然としていた。
まさに。
棚からぼたもち。
渡りに舟。
あの正木が作ったプログラムを、堂々ともらい受けることができるのだ。
ただ一つ面白くないことは、それと同じものを若林も得るということだが、それでも、正木と〝共同製作〟できるという喜びには変わりない。
川路は正木たちと同じくK大出身だが、彼らよりも二年先輩である。
だが、川路は現在〝准教授〟で、彼らは二年前から〝教授〟だった。無論、K大史上最年少の教授である。この点でも川路は若林が腹立たしいのだが(正木はしょうがない)、確かに、彼らはそれだけの仕事を成していた。
――日本初の人間型ロボット、〝桜〟の設計者。
若林と正木は、そんな輝かしい過去を持っている。
おそらく、その頃からだろう。誰が言ったか知らないが、二人は〝K大の双璧〟などと呼ばれるようになった。
そんな若林と正木とは、どこからどこまで、正反対な人間同士である。
若林は制御工学を専門とし、その技術は悔しいが日本随一だろう。一九〇を超す長身と端整なマスクから、数少ない女子学生によくもてる。しかし、学生時代から現在に至るまで、浮いた噂は一つも立っていない。
かたや、正木は知識工学が専門である。だが、彼はそのことよりも、時に〝何でも屋〟と揶揄されるほどその研究領域が広いことと、その類まれな美貌とでよく知られている。
学界では、ちょっと顔が整っているだけでハンサムや美人と言われるが、正木は違う。栗色のさらりとした髪。色っぽい切れ長の目。形のいい赤い唇。彼を初めて目にしたとき、川路はしばらく身動きがとれなかった。これで身長が一八〇あまりもなかったら、てっきり美女だとばかり思っただろう。実際そう間違えた者もいた。
しかし、その中身にはかなり問題がある。頭はよすぎるほどいいのだが、口が悪くて気が短い。男は臭くて汚いから嫌いだと言ってはばからず、女にはめっぽう甘かった。そのため、女子学生から女子職員まで、女はすべて正木の味方と言ってもよかったのだが、なぜかその手の噂は一つも立たないまま、今年の三月に突然辞職した。
かように対照的な二人であったが、その仲は非常によかった。というより、正木のほうが若林に対してだけは親しげな態度をとっていた。男は嫌いだと公言していた、あの正木が。
もちろん、あんな性格だから、露骨にそれを表にしていたわけではない。だが、人の意見にはまったく耳を貸さないくせに、若林のそれには素直にうなずいたり、川路たちにとっては喉から手が出るほど欲しい貴重なデータを、若林にだけぽんとくれてやったりするのを目にすれば、嫌でもそれはわかるというものだった(もっとも、これは正木にしてみれば、〝豚に真珠はやらねえよ〟を実践しただけにすぎなかったのだが)。
ゆえに、この二人には、おそらく女子学生が出所かと思われる、ある噂が流れていた。
すなわち、二人は学生時代からつきあっている恋人同士で、実はもう同棲もしている云々(そして、正木が辞職したのは、その関係が大学側にばれたからだとか、いやいや、実は結婚退職だったのだとか)。
正木は自分の個人研究室でよりも、若林の個人研究室でコーヒーを飲んでいることが多かったし(これには証人が何人もいる)、自分の研究室は持たなかったくせに、若林の研究室にはしょっちゅう顔を出した(そのため、若林の研究室の人気倍率はいつも異常に高かった)。
しかし、川路をはじめとするロボット工学関係者は、それらのことよりも別のことで、二人の仲を疑った。
――〝夕夜〟。
四年前に発表された、若林のロボット。
正木を知る者ならすぐにわかっただろう。あれは学生時代の正木そのもの。若林は明らかに正木をモデルにして夕夜を作ったのである。
だが、若林は顔のモデルについてはまったく触れなかったばかりか、とうの正木もそのことについては何も言わなかった。
実は正木には、学生、同業者を問わず、熱狂的な隠れファンが多い。しかも、そのほとんどが男性だ。正木が男嫌いだから、嫌でも隠れファンにならざるを得なくなるのだが、だからこそ、正木の寵愛(だろう)を欲しいままにしている若林は、自然と彼らの嫉妬の対象となった。かくいう川路もその隠れファンの一人である。
しかし、認めたくはないが、顔でも実力でも自分が若林にひけをとることは事実である。だからこそ、川路はこの狡猾な計画を立て、実行に移した。
〝夕夜〟を人前に出したがらない若林は、必ず新しくロボットを作ろうとする。そして、いくら若林とはいえども、わずか一ヶ月ほどでロボットを作るのは不可能なはずだ。
それに対して、自分はもうとっくの昔にロボットを完成させている。しかも、かなりの自信作だ。よしんば、自分が優勝できなかったとしても、若林のロボットが優勝することはまずあるまい。〝夕夜〟を出されない限り。
(賭けだな、これは)
黒縁眼鏡を指先で押し上げて、川路は苦笑した。〝夕夜〟を出されたら、どんなロボットにも勝ち目はない。
今度のコンテストには出されない彰は、その理由の一つとなった無表情で、じっと川路の背中を見つめていた。
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