63人が本棚に入れています
本棚に追加
05 ロボ研
誰もが、我が目を疑った。
あの彼が、あの頃のように、悠然とキャンパス内を歩いている。
そのあまりに信じがたい光景に――薄情な彼は、あれからここに遊びに来ることさえなかったのだ――誰もそうとわかっていながら、挨拶の言葉をかけることさえできなかった。もっとも、そうでなくとも男子学生は、彼に声はかけられなかっただろうが。
服装だけなら学生と見分けのつかない彼は、一つに結んだ長い髪を揺らしながら、〈ロボット研究センター〉の表札のかかった建物の中へと何のためらいもなく入っていった。職員用のエレベーターで三階へ行き、ノックもなしに計算室のドアを開け、ぶっきらぼうに叫ぶ。
「夕夜! いるか!」
「いるも何も、いったい今何時だと思ってるんですか。私はともかく、川路先生に失礼でしょう」
窓際に腕を組んで立っていた夕夜は、冷ややかに彼――正木を見返した。
その少し離れたところに、白衣を着た小太りの眼鏡の男――川路が座っている。川路は正木を認めたとたん、あわてて立ち上がった。身長は一七〇そこそこで、夕夜よりもずっと低い。
計算室内には彼らしかおらず、ただ端末だけがずらりと並んでいた。
「何時って、まだ十二時じゃねえかよ」
正木は唇をとがらせて夕夜を見た。川路のほうにはまったく見向きもしない。
「正確には、十二時三十四分です」
自分の腕時計を見ながら、夕夜は冷然と告げた。
「それくらい大目に見ろ。こっちは無理して昼間に起きてきたんだからよ。んじゃあ、とっとと渡しちまうぜ。こっち来い」
正木は明らかに夕夜に対してだけ手招きした。
もともと正木は川路には無愛想だったが――というより、若林以外の男にはみんな無愛想だった――今はその存在を認めてすらいない。
正木にあからさまに無視されて、川路はショックを隠しきれない様子だったが、それは完全に自業自得というものである。夕夜はさっさと正木のそばに行った。
「これがそのプログラムだ」
正木は脇に抱えていたキャリング・ケースを開けて、一枚のディスクを取り出した。
「俺が丹精こめて育てたプログラムだ。大事に扱えよ。じゃあな」
それだけ言って、夕夜にそのディスクを押しつけると、もう計算室から出て行こうとする。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
夕夜はあわてて正木を呼び止めた。
「プログラムって、このディスク一枚だけなんですか?」
「そーだよ」
何をわかりきったことをとでも言いたげに、正木は夕夜を見た。
「これだけで足りるんですか?」
「俺がミスってなけりゃな」
あっけらかんと正木は答えた。
「ま、足りないと思えば、そっちでテキトーにつけくわえといてくれ。とにかく俺は今サイコーに眠い。早くうちに帰って寝直したいんだ」
「それはあなたの理屈でしょう。このディスクはあなたに返さなくてもいいんですか?」
「ああ、かまわねえよ。そりゃコピーだから。オリジナルは俺の手元にある。んじゃあな」
おざなりにそう言うと、正木は片手をひらひらさせながら、足早に計算室の出入口に向かった。
「ちょっ、ちょっと――」
夕夜はなおも正木を引き止めようとしたが、今度は正木は振り返らなかった。そのまま、ドアノブに手をかけて出て行こうとしたが――
その寸前にドアがノックされ、中の返事を待たずに開かれた。
「失礼します……あ、夕夜、正木は? もう帰ったか?」
夕夜は思わず額に手を当てた。何なんだろう、この人は。間が悪いと言おうか、いいと言おうか。いくら待ちきれないからとはいえ、内線電話で確かめるとか思いつけなかったのか。
「夕夜?」
不思議そうに自分を見る相手に、夕夜は黙ってドアを指さした。
「え?」
それでようやく気づいたらしい相手が、あわててドアの陰を覗きこむ。
「まだ帰ってなくて、悪かったなー、若林」
ドアが開いた拍子に額をぶつけた正木は、険しい目つきで若林を睨んだ。
「うわっ、正木! いたのかっ!」
川路と同じく白衣姿の若林は、派手なリアクションと共に正木から跳びのいた。彼はてっきりすぐに正木が帰ったものと思いこんでいて、だからこうしてやってきたのだが、唯一の誤算は、正木が時間にルーズな男だったことを忘れていたことだろう。
「今帰るとこだったんだよ」
相変わらずな若林の反応に、正木は不機嫌に眉をひそめた。しかし、その内心は七ヶ月ぶりの再会に動揺している。
もしかしたら、こんなことになるんじゃないかという予感はあった。だが、まさか本当にそのとおりになるとは。こんなことになるのなら、ちゃんと時間どおりに来ればよかった。でも――やっぱり会えて嬉しい。
そんなことを考えてしまう自分が情けなくて悔しくて、だからついつい言葉も表情もきつくなってしまう。
「あ……そうか。――悪かったな」
何が悪いのか自分でもわからぬまま若林は言い、出ていく正木のためにドアを大きく開けた。
彼には正木に、久しぶりに会ったんだ、ちょっとコーヒーでも飲みにいかないか、とか何とか言うつもりはまったくない。気がきかないというよりは、正木にそんなことを言うのは迷惑だろうと勝手に思いこんでいるのである。周囲にはもはや親友以上の仲に見られている二人だが、真実はそんなものだった。
だが、若林がそんなことを考えているとは、正木には思いもよらない。若林に誘われれば、喫茶店だろうがホテルだろうがどこへでもすぐ行くのに、こいつはまた引き止めも何もしないのだ。相変わらずの薄情者。
それなら正木のほうから、ちょっと喫茶店にでも行かないかと誘えばよさそうなものだが、自分でもうこの男には一生会わないと決めた以上、そんなことは意地でも口に出せない。正木は不機嫌きわまりない表情で、若林の横をすり抜けようとした。
「待ってくださいッ!」
普段めったに大声を出すことのない夕夜が、突然、声を張り上げて正木を止めた。常にないことに、正木も若林も、すでにその存在を黙殺されている川路も、驚いて夕夜を見た。
「何だよ、いきなり。もう俺に用はないだろ?」
正木はいかにも不服そうに顔をしかめてみせたが、よくぞ引き止めてくれたと感謝しないでもない。
「あります」
そんな正木の心理など(ついでに言えば若林のそれも)、とうに見透かしている夕夜は、わざとすました顔で答えた。
「公平を期すため、あなたがこれをコピーしてください。私たちの目の前で」
かくして、計算室の締め切り時間は延長され、そのドアの前は、かの麗しの君(ただし、外面だけ)を一目見んとする学生たちでいっぱいになった。
しかし、それは正木たちの関知するところではない。
「まったくよー。んなの、おまえらで勝手にやりゃーいいじゃん」
正木はぶつぶつ言いながらも、手際よく作業を進めていった。まんざら嫌でもなさそうに見えるのは、夕夜の気のせいか。
「これは基本システムだけなのか?」
生真面目な表情で、突然、若林がそう訊ねてきた。
ロボット工学一筋の彼は、正木に今日の都合は訊けなくても、こういうことなら気軽に訊ける。正木もまた、こういう質問にはまっとうに答える。
「基本システムだけだ。だから、後はおまえらが自分で〝成長〟させろ。それもまた勝負のうちだ」
「男か? 女か?」
これには、正木も夕夜も、居心地悪そうに端に立っていた川路も、思わず若林に目を向けた。
若林の表情は、あくまで真剣である。
「それもおまえらで勝手に決めな」
驚いた顔もつかのま、正木はにやりと笑ってみせた。
「俺がおまえらに提供するのは、この基本システムだけだ。これをどう料理するかはおまえらしだい。……おっと、終わったな」
正木はコピー用に若林に用意させたディスクを取り出して若林に渡し、自分が持ってきたディスクのほうを無造作に川路に突き出した。
今まで正木に(ついでに夕夜と若林にも)無視されていた川路は、正木が自分に差し出しているとはにわかには信じられなかった。このまま素直に受け取っていいものかと戸惑ったが、正木の眉がいよいよ険しくなるのを見て、あわててディスクを両手でつかんだ。
「じゃあ、俺はもう帰っていいな」
そう言って、正木は椅子から立ち上がった。
「コンテストには俺も見にいくからさ。ま、せいぜいがんばんな」
「ええッ! おまえが見にくるのかッ!?」
ディスクを抱えたまま、若林は恐れおののいた。正木のコンテスト嫌いは、彼もよく知っていたからである。
川路も声には出さなかったものの、若林と同じくらい驚いていた。
夕夜はたぶんそんな気がしていたので、二人ほどには驚かなかった。若林が作ったロボットを、それも自分のプログラムを組みこんだロボットを、正木が見ないで済ませるはずがない。本音を言えば、設計段階から関与したかっただろう。六年前のあのときのように。
「いいじゃねえかよ、別に。俺は見るだけで、審査には参加しねえよ。不公平になるからな」
すねたように正木は答えると、机上に置いていたキャリング・ケースを乱暴に取り上げ、さっさとドアに向かって歩き出した。もう呼び止める理由もない。そう思って夕夜が正木を見送っていると。
「正木」
どういう風の吹き回しか、若林が小走りに正木の後を追っていった。
正木は即座に足を止めて振り返る。まさか若林が自分を呼び止めてくれるとは思いもしていなかったので、彼は本当に驚いていた。思わずまた期待してしまうが、そうして裏切られた経験は数限りなくある。正木は浮き立つ心を無理に抑え、表面上は怪訝そうに若林を見やった。
「何だよ?」
正木の冷ややかな視線に、若林は少したじろいだ様子を見せた。しかし、すぐに沈痛な表情になって、少々きつめの(でも正木好みの)目を伏せた。
「すまない」
呟くように、薄情なはずの男は言った。
「おまえにはもうロボットを作る気はなかったのに……本当にすまない」
あわてたのは正木のほうである。
「い、いや、これは俺が勝手に言い出したことだから……」
「夕夜から聞いたんだろ? 俺がまだプログラムを完成させてないって」
「…………」
「正直言って、本当に助かった。おまえに言い出してもらえなかったら、俺はきっと当日にも完成できなかった。その点ではとても感謝している。あまり大きな声では言えないけど」
その言葉どおり、若林は川路たちには聞こえないよう、声を潜めて話していた。それがまるで愛の言葉を囁いているようで、思わずうっとりしてしまう。
――そう。正木はこの鈍感男に心底惚れていた。それこそ、大学の入学式のときから。それでも、いまだに〝元同僚〟なのは、ひとえに若林のせいである。
「でも」
そんな恨み言が伝わったわけでもあるまいが、若林はふと辛そうに顔を歪めた。
「本当はこんなことで、おまえのプログラムは使いたくなかった。おまえと作ったロボットは、ロボットとして人前にさらしたくないんだ。ましてや、コンテストになんか……」
――何なんだ、この男は。
うっとりを通り越して、正木は気が遠くなりそうになってきた。
鈍感なくせに、薄情なくせに、時々この男は殺し文句を吐く。
これはきく。普段が普段だから、なおのこときく。正木が今までこの男をあきらめることができなかったのも、この殺し文句のせいだ。この男にしか言えない、この男だけの殺し文句。
だが、きっと本人はそれを意識して口にしているわけではないのだ。だから余計始末が悪い。これにうかうか乗ろうものなら、この男はさっと逃げていく。たぶん今も。
「わかってるよ」
しいて普通の顔で正木は言った。言うことができた。
「元はと言えば、おまえにあんなもんを寄こした俺が悪いんだ。フィフティ・フィフティってことで、お互い、謝るのはなしにしようぜ。きりがねえからよ」
「正木……」
若林は驚いて正木を見た。同時に深く感動した。いつもついつい後ろ向きになりがちな自分に対して、正木は常に前向きだ。正木のこの性格のおかげで、今までどれだけ救われてきたかしれない。
それだけに、正木が大学を辞めてからは、本当に寂しかった。最近、ようやくそれにも慣れてきたところだったのだが、またこうして会ってみると、やっぱり正木はいいと思ってしまう。
しかし、彼はどうしても、自分のほうから正木に働きかけることはできない。他人からどう思われようとも、若林にとって正木とは、やはり〝高嶺の花〟なのである。
「とりあえず、今のおまえがすべきことは、コンテストに間に合うようロボットを完成させることだ。後のこたー、結果が出てから考えればいい。そうだろう?」
「あ、ああ」
胸元に人差指を突きつけられて、若林は言われるがままうなずいた。
「よろしい。それからそのプログラムに関する問い合わせ等には、当方は一切応じない。以上」
講義口調で正木は言うと、ドアノブに手をかけた。と、眉間に皺を寄せる。
「しゃあねえな」
小さく口の中で呟いてから、正木はドアを薄く開け、即、足で思いきり蹴っ飛ばした。とたんに起こる低いどよめき。
「てめーら、通行の邪魔だ。散れ、散れ」
二十人はあろうかという学生の集団を前にして、正木は横柄に手を振った。それを正木の肩ごしに見ていた若林は、よくぞこれだけ集まったものだと感心した。しかも、中には話し声や物音はまったく聞こえなかったのだ。かなり統制のとれた集団と見える。それとも、正木の非公認ファンクラブの一派か。
「正木先生、もしかして、復職するんですか?」
正木のためにぞろぞろと道を開けながらも、勇気ある学生の一人が嬉々としてそう訊ねてきた。ついでに言えば、学生は見事に全員男性である。それを見てとったか、正木は投げやりに答えた。
「女子学生が増えたらな」
「センセー、理工でそりゃ無理っすよ」
「えーい、うるさい。俺の半径一メートル以内に入ってくるんじゃねえ」
キャリング・ケースで学生たちを追い払いながら、正木は廊下をのし歩いていった。そんな正木の後を、学生たちは適当な間隔を保ちつつ、ざわざわとついていく。やはり非公認ファンクラブの一団か。躾が行き届いている。
「相変わらず、すごい人気ですね」
いつのまにか若林のそばに来た夕夜が、呆れたようにそう言った。
夕夜は今日初めて大学へ来たのだが、正木の過剰な人気ぶりは、若林から聞かされて知っている。そのため、正木似の夕夜は、今朝、若林と共に車で大学へ来て、昼まで若林の個人研究室に身を潜めていたのだ。
それもこれも、みんな正木のせい。まったく、傍迷惑なことだ。
「ところで」
夕夜は急に悪戯っぽく笑って、若林を見上げた。
「さっきは正木博士に何を言いにいったんですか?」
「……聞こえてたんだろ、おまえには」
若林は少し赤くなった。夕夜は自分の聴覚の精度を自由にコントロールできる。
「とにかく、プログラムをもらえてよかったですね」
そしらぬ顔で夕夜は微笑んだ。
「私も、本当の妹のほうが嬉しいですよ」
最初のコメントを投稿しよう!