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06 準備室・個人研究室
きっかけは、実にささいなことだった。
今年の春頃、誰もいない準備室で、川路は緑色のUSBメモリを拾った。
たぶん学生が落としたんだろうと思い、手に取ってみると、黒いマジックで〝LIST〟となぐり書きされていた。
今思うと、なぜそんなことをしたのかわからない。いつもの川路なら、捜していた助手が不在だったのだから、そんなメモリは放っておいて、さっさとそこを後にしていただろう。だが、そのときの川路は何となく気になって、近くの端末を立ち上げ、メモリの中身を覗いてみたのだった。
中には〝LIST〟と名づけられたテキストファイルが一つだけあった。それをクリックすると、何かの一覧表が現れた。
「何だこりゃ」
思わず川路はそう呟いてしまった。
〈ロボット工学,論文,20××,未発表,白紙,自発育成,R012〉
そんな単語の羅列が延々と続いているだけなのである。
このメモリの持ち主は何を考えてこんなものを作ったのだろう。まさか、これらすべてが著作で、あまりにその量が膨大すぎるから、わざわざ自分でこのようなリストを作ってしまったのか? では、いちばん最後のアルファベットと数字は著作の整理番号か? 川路はすっかり悩みこんでしまった。
リストのほとんどは〝ロボット工学〟で〝論文〟で〝未発表〟だった。しかし、画面をスクロールしていくうちに、思いもかけない一行を川路は発見した。
〈ロボット工学,論文,20××,既発表,桜,感情論,R004〉
――正木……!
それは、ロボットに感情を与えれば情報処理能力が飛躍的に向上するという衝撃的な論文で、正木の出世作とも言えるものだった。とすると、このメモリは正木のものだったのか? でも、どうしてこんなところに?
そう思いながらも、川路はそのメモリを引き抜き、端末の電源を落とした。――と。
まるでそれを見透かしたように、準備室のドアがノックされた。お世辞にも褒められないことをしていた川路は、思わず飛び上がった。
「あ、いらしてたんですか」
川路が返事をする前にドアを開けて現れたのは、正木が去って〝K大の一璧〟になってしまった若林だった。若林は何かを捜しでもするようにしきりと床を見回していたが、やがて川路の手の中にある例のUSBメモリに目を留めた。
「あ、それ」
「え?」
川路はあわててメモリをテーブルの上に投げ捨てた。
「ああ、あったあった。やっぱりここにあった」
そう言いながら若林は近づいてきて、そのメモリを大事そうに持ち上げた。
「おまえのか、それ」
川路は眼鏡の奥の細い目を、いっぱいに見開いた。
「あ、はい。キーホルダーにしてたんですが、ここで落としてしまったみたいで……なくしたらどうしようかと思いましたよ」
気恥ずかしそうにそう答えて、若林はそのメモリを自分の白衣のポケットの中に収めると、「じゃあ、どうもお騒がせしました」と軽く会釈して、そそくさと準備室を出ていった。
(どういうことだ?)
再び、川路は混乱した。
あのメモリには正木の著作リストが収められていた。しかも未発表のものが多い。そんなものをどうして若林が持っている? 正木が作って、わざわざ彼に渡したのか? なぜ? 何のために? あれは単なるリストであって、現物がなければ何の役にも立たない。
(……まさか)
その現物を若林が持っているのか? ロボット工学だけであれだけ膨大な数にのぼる論文を!
川路は別に、正木の論文が欲しいわけではなかった。いや、一度は見てみたいと思うが、そんなことはこの際、重要なことではなかった。
重要なのは、それを若林が持っている(と考えられる)ということ――
他の誰でもない、よりにもよって、あの若林が!
たぶん、若林はそれを正木から直接譲られたのだ。悔しいが、川路もそう思う。
だが、やりきれない。納得できない。何とかして、若林に一矢報いることはできないものか。あくまでもロボット工学者として、ロボット工学という土俵の上で。川路は悩み、そして思いついた。
――ロボットコンテスト。
「間違いないですよ。そのとき川路博士に中身を見られたんですよ。そんな重要な話、どうして今まで黙ってたんですか」
若林の個人研究室で、パソコンのモニタと向かい合っている若林を、夕夜は冷ややかに責めた。
「いや、正木の顔を見て、そういえばって思い出したんだ。そうか。おまえもそう思うか。じゃ、そうなんだろうな」
一方、事の重大さがわかっているのか、若林はのほほんとしている。外見や肩書がどうあれ、若林はこういう男なのだ。
しかし、そんな若林に確実にダメージを与える方法を夕夜は知っている。
「だいたい、何だってそんなところに正木博士のメモリを持っていったりしたんですか? あれは門外不出のはずでしょう?」
案の定、夕夜がそう言うと、とたんに若林はばつの悪そうな顔になった。
「持っていったっていうか……キーホルダーにしてて……金具が壊れてて、知らないうちに取れてて……」
「そんなことになるのも、キーホルダーなんかにしたりするからでしょう」
「その日限りで、もうやめたよ」
「当然です。いったい何を考えていたんですか? あの正木博士だってそんな馬鹿なことはしませんよ」
もはや何の反論もできず、若林は黙って自分の頬を掻いた。口では――というか、口でも到底かなわない。
「まあ、それはもういいです。今さらあなたを責めたって、何の解決にもなりませんからね。それより、プログラムのほうはどうです? 何とかなりそうですか?」
夕夜が攻撃の手をゆるめてそう話を振ると、若林は露骨なくらいほっとした表情になった。
「ああ、たぶんこれは〝とかげのしっぽ〟だ」
「〝とかげのしっぽ〟?」
何の脈絡もない言葉を聞かされて、夕夜は思わず復唱した。
「ああ。以前、正木が遊びで作ってたやつだ。まともに言えば、〝データベース自動形成システム〟とでもなるのかな。情報を勝手に収集・整理して、指定されたデータベースを自動的に形成する。万が一、そのデータベースが使えなくなっても、このプログラムで何度でも再生できる。だから、〝とかげのしっぽ〟」
普段は寡黙な若林だが、正木の話になると驚くほど饒舌になる。夕夜は笑いをこらえるのにかなり苦労した。
「なるほど、正木博士らしいですね。すると、この場合はロボットの記憶を再構成するわけですか」
「そういうことになるな。ま、すべてはうちに帰ってからだ。これは特定の環境を調えないと起動しないんだ」
若林はさっさとディスクを取り出すと、自分よりも確かな夕夜に手渡した。
「でも……」
自分の手の中のディスクを、夕夜はじっと見つめた。
「あなただから、これが何のプログラムかすぐわかりましたけど……他人には、まずわからないでしょうね」
「そうかなあ。しばらくいじってれば、誰でもそのうちわかるんじゃないかな」
すでに帰り支度を始めている若林は、あっさりそう答えた。
一方、その頃。
川路の個人研究室では、正木のディスクを見つめたまま、川路が固まっていた。
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