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そう、今は話せる人が裕樹しかいないのだ。疲れて帰る家には、寝たきりになった祖母の介護でやつれた母がいて、父の帰りも遅い。我が家の均衡も崩れつつあった。
「そういや、彼氏は?寄り戻したんじゃなかったっけ」
ふと思い出したように、裕樹が言う。先月に喧嘩別れをした彼のこと。いつもカルバンクラインの香水をつけている人だった。
「ううん。やっぱり休みがなかなか合わないのもあって、結婚が考えられないからって。仕事辞めるくらいなら、付き合いをやめるよ、私は」
きっぱりと言い放つ。失恋が傷心を含むものであるのなら、これは失恋ではない。数日前に髪を切りに来た艶肌の彼女が頭を過っていた。
ずっと憧れていた仕事だった。中学生の頃、初めて母に連れて行ってもらった美容院で、働いている人すべてがキラキラして見えたのだ。みんなお洒落で、この人たちの手でまるで私まで同じものになれるような気になった。たとえ目が覚めるように現実を突きつけられても、まだこの世界にいたかった。
「いいな、お前は」
たしかな羨望が、その声色に含まれる。
「なに言ってんの。裕樹は今の方がずっと楽しそうにやってるじゃん」
「俺は、辞められたからな」
愁いを帯びた瞳が、薄く笑う。
辞められた。いつか自分で店を持つんだ、と眩しい笑顔で話していたはずの彼。
「それに、こっちもぼちぼち大変なんだよ。楽しいこともありゃ、きついこともある」
「誰しも、か」
裕樹はいつもそれ以上のことは話さない。私だって似たようなものだ。見えないだけ、言葉にしないだけ。誰しもが、その背中に大きな荷物を背負っている。肩に食い込んだその重みを、見せないのが大人だ。
「やっぱり、裕樹はかっこいいよ。あたしなんかよりずっと」
もうとっくに溶けた氷が、ウイスキーを薄めていた。左手でグラスを持つと、腕時計が店内の照明を反射する。
フルスケルトンの自動巻き。今の店に移るときに買ったそれは、さながら武装のようなものだった。男尊女卑なんて過去の遺物に囚われないよう、大きな盤面を女の細腕にはめた日。それが、裕樹と初めて会った日でもあった。
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