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家に帰ると、すぐにお風呂場へ向かった。蛇口を勢いよくひねって、バスタブにお湯をはる。ジョボジョボと慎ましさのかけらもない音を聞きながら水面を眺めていると、母の呼ぶ声が聞こえた。
「今日も湯船に浸かるの?」
リビングに顔を出すと、怪訝そうな顔で母が言う。我が家の住人は、浴槽にお湯をはる習慣がないらしく、父に言わせると私は「浴槽の住人」なんだそうだ。
「どうしたの?」
「おばあちゃんの医療費もバカにならないんだから節約してって言ったじゃない」
「私だって家にお金入れてるんだから、とやかく言われる筋合いはないでしょ」
急激に頭に血が上るのが分かった。
どうして家にすら落ち着ける場所がないのか。仕事はこなしても職場で小言を言われ、唯一話せる裕樹にも甘えきることができなくて。私の居場所は浴槽にしかないのに。
父がここにいればいいのに、そう思った。そうすれば、「詩夏はお風呂が好きなんだから、それくらいいいだろう」と笑ってくれただろうに。そんな父は、目下、愛人とお出掛け中。暗黙の了解というような仮面夫婦だ。それでも今もし離婚などしたら、母の親である祖母の介護に医療費にと必要なお金は完全に底をつくだろう。足元を見られていると分かっていても、母は黙殺するしかないのだ。
自分が酷いことを言った自覚はあった。それでも口から出たものは、もうどうにもならない。罪悪感が心を覆っても、どうしても。
半ば駆け込むようにお風呂場へ向かった。今日のバスソルトは無臭のものにしよう。代わりに鎮静効果のあるカモミールローマンのオイルを数滴垂らす。力強い香りが、現実から私を引き離してくれることを期待していた。
悲しくて、やりきれなくて、湯船で大声で泣いてしまいたかった。でも、泣きたいと思ったときには泣けないのだというのも、もう随分と前から分かっていた気がする。 現実はいつだって、理想には届かないもの。
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