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02 - 遠く小鳥のさえずりが
遠くに小鳥のさえずりが聞こえる。
そう思って目をあけると、とたんに腹からつきあげてきて、アイディーンは胃液混じりの唾液を吐きだした。
「なんだ……これは……」
荒い呼吸をくりかえしながらのつぶやきは、自分で思うよりも小さく、震えている。
見まわすと昨夜の廟のそばだった。
夜はすっかり明けていたが、朝露で髪も服もじっとりと濡れている。
いや、濡れているのは自分の汗のせいかもしれない。
しばらくぼんやりと鳥の声を聞いていたが、昨夜あれほど苦しめられた目の痛みはもうなくなっていて、嘔吐したのは激痛の残滓らしかった。
それにしても、左目はまだ熱を含んで温かい。
いったいなにがおこったのかと記憶をたぐろうとしたとき、廟の扉が開いてスィナンの青年がでてきた。
アイディーンが目覚めているのに気づくと、かけよってくる。
「気分はいかがですか」
「昨日よりはマシ、かな」
彼の答えに、カシュカイはとうつむいて目を伏せた。
無言のまま、濡れた布で青年の土で汚れた顔や手をぬぐうと、再び廟へ入っていった。
しばらくしてまた綺麗に洗った布を持ってでてきたので、アイディーンは廟のなかに噴水があったのを思いだす。
カシュカイは布を折りたたんでアイディーンの額にあてた。
頭の下にもカシュカイの上着が枕代わりにしてある。
アイディーンは居心地の悪さを感じて思案し、その原因が妙にかいがいしいスィナンの青年の態度だと気づいて苦笑した。
アイディーンの不可解な反応に、しかしカシュカイは理由を問うこともない。
その顔は青ざめており、唇は赤みを失っていた。
「おまえのほうが倒れそうだ」
「私は問題ありません」
疲労に満ちた目もとを伏せてカシュカイは答える。
彼の頑なな態度は相変わらずで、アイディーンはそれ以上はなにも言わなかった。
それにしても、昨夜の不可解なできごとはいったいなんだったのだろうか。
青年の問うようなまなざしを受けて、カシュカイはうやうやしく低頭した。
「アイディーン様にはお詫びを申しあげなければなりません。そして、私があなたの契約の従僕となることをどうかお許しください」
王族に対するような態度にアイディーンは驚いて、思わずおきあがった。
「なにを言ってるんだ……」
「すべてお話しします」
カシュカイは静かな面持ちのままだったが、ためらいがあったのか少し沈黙して、それから話しはじめた。
――スィナンの一族は、身の内にある魔族の血によって人間を糧とする本能をもつ。
人間への捕食衝動に抗えない一族の祖は、やがて数に勝る人間たちに復讐とともに滅ぼされることを恐れ、本能をおさえるためのある因子を一族のなかで血統を通じて伝えられるようにした。
それがのちに〈終の契約〉と呼ばれるようになる。
契約は初め、一族のうちでのみ発現するように定められた。
自らの支配者が無作為に契約の主として選ばれ、強固な従属関係を結ぶというものである。
主は僕へあらゆる望みを命じる自由があり、僕は主のいかなる命にも従わなければならない。
スィナン全体から捕食本能だけをとりのぞく悲願はついに叶わなかったが、終の契約という強大な力を利用することで、一族の者たちは互いに契約を結び、僕に対して一度のみ「人の系譜に連なるものを殺すことなかれ」と命じる因習が生まれた。
しかしいつのころからか、契約はスィナンだけにとどまらず、主としての契約者にまれに人間が選ばれるようになったのだった。
――青年の淡々とした告白は、おそらくスィナンの一族の秘事に関わるに違いない。
以前カシュカイが契約という言葉を口にしたのをアイディーンは思いだした。
「待ってくれ。そんな、人ひとりの心身すべてを縛りつける都合のいい法術など聞いたこともない」
「終の契約は法術というより、スィナンに伝わる呪法の一種です。魔族が好んで使う契約の力と法術を混ぜあわせた、呪詛に近い力です」
「では、おまえの契約の主が俺だったというわけか」
ようやくすべてを納得したアイディーンとは反対に、スィナンの青年の表情はひどく暗かった。
「契約は一度きりで、成立すれば決して解呪できません。あなたがそれをわずらわしく思われるなら、私に死を命じる自由があります。そうすれば、私はあらゆる手段で自分を葬り去るでしょう」
「いまのところ、俺がおまえに叶えてほしい望みはなにもない」
アイディーンは軽く笑った。
それは気遣いではなく、本質的に彼が身内を含め他人というものに依頼心をもったことは一度としてなかったのである。
そういう意味では、終の契約は主従どちらにとっても枷にも希望にもならないだろう。
しかし、不意にアイディーンはからかうように言った。
「そうだ、とりあえず暗黒期は終わらせてしまわないとな」
それが望みだとでも言いたげな言葉に、カシュカイは虚をつかれた顔をした。
「それから、俺のことはアイドと呼んでくれ。敬称で呼ばれるつきあいでもないだろう。おまえも愛称で呼ばせてもらう。よろしくな、カシウ」
さしだされたアイディーンの手を、カシュカイはしばらく見つめた。
やがてその手を両手で受けると、厳かに額をおしあてた。
「契約は命数が尽きるまで、心体のすべてをもって従い、主の真実を司る左眼を証とします」
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