第十二話 華の嵐

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 薄明かりに照らされ、微睡みの波間に身を任せる。そして心地よく岸辺に向かって いく。 「……何も、聞かぬのだな。私の過去を」  岸辺とは即ち帝の腕の中である。帝は、千愛の髪を優しく撫でながら言葉を 紡ぎ出す。 「過去は、もう過ぎ去ったもの。千愛は手を伸ばし、触る事すらできません。 知りたくない、と言ったら嘘にになりますわ。ですが、女御様たちとの華やかな愛の 遍歴など、聞きたくはございませんもの」  岸辺に着いたばかりで、微睡みの波間にまだ足先が浸かっている千愛。 帝は、彼女が初めて本心を(さら)け出してくれた事が、非常に嬉しく感じた。 「……妬いてくれるのか? 嬉しいぞ、千愛」  と言いながら、両腕に力を込めてひしと抱きしめる。 「御門?」  何故か嬉しそうな彼に少しホッとした。今まで考えないようにしてきた彼の過去。 それに伴って湧き上がる嫉妬心。それを漏らしてしまった事を少し後悔し始めて いたから。 「話して、下さるのですか?」  千愛は恥ずかし気に帝を見上げた。 「明日明後日は漸く休みだ。ゆったりと過ごせる。こうしてじっくりと語るのも良か ろう」  その瞳に穏やかな伊篝火を宿し、千愛を見つめた。 「……俺は本来、普通の貴族として宮仕えしていたんだ。だけど急遽、即位する事に なった」  帝はゆっくりと過去の扉を開け始めた。  燭台一つに照らされた十畳程の仄暗い部屋。部屋の四隅を黒い御簾、更に富士と 朝日が描かれた屏風に囲まれている。藤原道長の邸の一室である。ここは、内密な話 をする場所である。信頼出来る者しか出入りを許されない。 「……少し、お灸を据えてやらねばなるまい。あまりも、目に余る」  目の前に深々と頭を下げるものが二人。二人とも、黒の直衣にその身を包んでいる。 「清原朝信(きよはらのあさのぶ)」  道長に呼ばれ、面をあげた者は能面のように無表情で冷たく端正な顔立ちの青年で あった。 「芦屋道満(あしやどうまん)」  続いて名を呼ばれた男が面をあげる。灰色の髪をしっかりと結い上げ、堂々とした 体躯の初老の男。鋭い切れ長の瞳が印象的で、何となく蛇を思わせる顔立ちであった。 「朝信は物理的な面から。道満は霊的な面から攻撃せよ。今回は挑発だけで良い。 言わば敵情視察だ」  道長は命じた。 夜は深まり、闇は一層濃くなっていく。星一つ無い夜。月は厚い雲にその身を隠して いた。
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