美沙子へ

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ホテルを出てまた手を繋いで駅の方面に歩いた。 夕刻に日が落ちて夜風が冷たかった。 夕飯を食べる事にしてアーケードを歩き、イタリアンの店に入った。 席に着いてまた二人で煙草に火を付けると気が付いた事があった。 薬の作用か解らないが彼女の指先はかなり震えていた。 大丈夫かと聞こうと思ったが、私の声が出て来なかった。 それくらい驚く程に震えが大きかった。 仕方なくあまり見ないようにしてやり過ごした。 食事を注文して待っていると、どうやら向かいの席にいた外国人客の注文の応対に店員が少し困っている様子だった。 それを見ていた美沙子は仕事柄英語は多少出来ると言い、少し緊張しながら話しかけていた。 私は英語は話せないが単語はなんとなく聞き取れるという位のレベルである。 いくつかやり取りしてようやくメニューの説明が通じたようで、無事に店員が注文を確認し終わった。 よほど緊張したのは美沙子の方だったようで、彼女はその後しばらく不自然にガクガクと大きく震えていた。 気の毒でこれも私は指摘しなかったが、彼女の心根の優しさを見たようにも思った。 外国人客に私の事を聞かれたようで、一度はボーイフレンドと言ってフィアンセと言い直した所は少し気に入らなかった。 我々はメール等のやり取りこそ長い間してきたが、今日初めて会ってデートしたばかりである。 『出来れば良い関係を築いて、いずれはねと…』 確かに私はそう話してはいたが、彼女と距離を少し置きたくなってしまった瞬間だった。 さて、そろそろ帰らないと今日中に東京に戻れなくなる。 近鉄奈良駅に歩き着いた。 そこで帰り間際にもう一つガッカリした。 なんとさっきまでホテルで飲酒していたのに原付で帰るからとサラッと話す美沙子。 『おいおいそれはアカンて』 思わず私の口から関西弁の突っ込みが出てきた。 彼女は32歳の立派な大人の女性ではなかったのである… 天然で可愛いなんて許される年齢ではない。 貞操観念どころの話でもない。 社会通念上のルールを軽く見ている女と結婚するつもりなどさらさら無い。 酒に強いとか弱いとかいう理屈が通用する理由も断じて無い。 ホテルを出てから歩いて食事して2時間程経過はしていたが、立派な飲酒運転になる。 結局はもう少し歩き、彼女は大丈夫と言うので原付で帰るのを見送ってしまったが、やれやれといった気分で帰りの電車に乗ったのだった。
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