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第4章 Wの未練(3) 個人研究室
「おかしいなあ……」
若林はまた首をひねった。
何度かけ直しても、留守電に吹きこんだ自分の声のメッセージが返ってくる。
あの後、どうしても昨夜自分が何をしたのか気になってしまい、研究室から自宅へ電話をかけてみたのである。
ところが、誰も出ない。
もしかしたら正木は出ていってしまったかもしれないとは思っていたが、まさか夕夜や美奈までいなくなっているとは思わなかった。
鈍感と言われる若林でも、三人がよく一緒に買い物に行ったりしていることにはさすがに気づいている。だから、また三人で出かけたのかなとは思ったのだが、何となく釈然としないものを感じるのである。
(つい昨日まで、うちには正木なんていなかったのにな)
いつのまにか正木を家族の一員のように考えはじめている自分に気づいて、若林は苦笑した。
(まるで今まで別居してて、やっと戻ってきた女房が、いつまた出ていっちまうかと不安がってる亭主みたいだ)
若林の自己分析はたいへん的確である。
彼は常に冷静に自分の感情を見つめることができるが、それを表に出すことはできないのである。
そう――あのときも。
いったん〝自我〟を獲得すると、夕夜の〝成長〟は早かった。
またたくまに手足の動かし方を覚え、顔や声に〝表情〟をつけることを覚えた。
つい最近まで身動き一つとれず、何の反応も示さなかったことが嘘のような変貌ぶりだった。
そんな夕夜に、正木は次々と自分の持てるかぎりの知識と技能を与えた。それこそ、最新の宇宙論から酢豚の作り方、果てはテコンドーまで。
正木は本当に楽しそうだった。学生相手のときとは比較にもならないくらい。まるで我が子のように――確かにそうであるとも言えるが――夕夜を可愛がり、夕夜もまたそれに応えるように正木によく懐いていた。
別に若林は夕夜の〝教育〟に関与しないつもりはなかったのだが、二人のほうが若林を必要としなかったのである。ひそかに若林はいじけていたが、こうして楽しそうな正木を見るのは悪くないと思った。
ずっとこのままでいられたらと思った。
ずっとこのままでいられるんじゃないかと思った。
家に帰れば、正木がいて、夕夜がいて――
日に日に人間らしくなっていく夕夜を誇らしげに若林に見せて、どうだ、これも俺の教え方がいいからだな、などと正木が子供じみた自慢をする――
だが、そんな日々の終焉は、ある日突然やってきた。
少なくとも、若林と夕夜にとっては。
「おまえ、もう一人でやっていけるな?」
それはいつもと同じ朝。
夕夜が作った朝食を食べながら、何気なく正木はそう言った。
「は?」
テーブルの上座に座っていた夕夜は軽く小首をかしげた。こういった仕草も学習の成果だ。
「その〝おまえ〟というのは私のことですか? 〝やっていける〟とはどういう意味ですか?」
若林は何も言わなかった。
知っていた。ただ、今日切り出してくるとは思わなかっただけだ。
「夕夜」
まだロボットくささの残る夕夜に正木は苦笑を漏らした。
あるいは、何をしらばっくれてという呆れた笑いだったのかもしれない。
「俺はおまえが人間と見劣りしないくらいになるまでっていう約束でこの家にいた。いや、いさせてもらった。おまえはもう人間並みに動けるし、これ以上俺がおまえに教えてやれることは何もない。この飯を食い終わったらこの家を出てく。――若林、長いことすまなかったな」
「いや……俺のほうこそ」
口の中で呟いて、若林は味噌汁をすすった。
――本当に行ってしまうのか。
心の中ではそう呟いていた。
行かないでくれと、言えるものなら言ってしまいたい。
しかし、夕夜がほとんど人間と変わりなく活動できるようになった今、彼には正木を引き止める理由はなかった。
「どうしてですか?」
心底不思議そうに夕夜は正木の顔を覗きこんだ。
「正木博士は、この家の人でしょう?」
正木も若林も思わず夕夜を見た。
夕夜はいかにも不可解というような顔をしている。
「この家の人が、どこへ行くんですか? 私が〝人間〟らしくなったからと言って、どうして正木博士がこの家を出ていかなければならないんですか? ――私にはわかりません」
少しも感情的になることなく、淡々と夕夜は言った。
正木はもちろん、若林も返答に窮した。
夕夜には、二人が共同でおまえを作ったのだという説明しかしていない。
夕夜にしてみれば、自分が生まれたときから正木はこの家にいるのだから、彼がこの家の人間であると思うのは当然のことである。
正木は肘をついて額に手をやった。細い指の間から前髪がさらりとこぼれる。窓から入る光を浴びて、髪は金色に輝いていた。
若林はそれを見るともなく見ていた。
これからはもうこんな正木を見ることもなくなるのだ。ぼんやりそう思ったとたん、この何でもないような光景は、ひどく貴くそして切ないものに映った。
「俺は〝この家の人〟じゃないよ。夕夜」
肘をついたまま正木はふわりと笑った。疲れたような、どこか寂しげな笑みだった。
「俺のうちはちゃんと別にある。今までここにいたのは、夕夜、おまえのためだけだ。別に俺がこの家を出るって言っても、これっきり会えなくなるわけじゃない。調子が悪くなったらいつでも見にきてやるから」
嘘だった。
正木は自分が夕夜の製作にたずさわったことを世間には絶対公表しないでくれと若林に頼みこんでいた。
この家を出たら最後、たぶんもう正木はこの家には来ない。夕夜にも会わない。
なぜなのか、若林にはわからない。二人があれほど心血を注いで作り上げた夕夜なのに、どうして自分が夕夜の〝親〟であると名乗ることは嫌なのか。まるで明かすことのできない愛人との間に生まれた子供であるかのように。
(俺が、嫌なのか?)
幾度となく思い、そして決して口にはできなかった言葉。
だが、そう思い切るには、正木の行動は矛盾に満ちていた。
正木は何の保障もない共同製作をすぐに引き受けてくれた。作業中に夜食を作ってくれた。時には大学の仕事の手伝いまでしてくれた。
夕夜が完成してからは、自分は旅行にいくと偽って大学を休職し、若林の家で夕夜の教育に当たりながら、家政夫さながらに働いてくれた――
これらの行動から導き出せる答えはただ一つ。
〝好意〟だ。
鈍いと言われる若林だが、正木が自分に好意を持っていることは、ずいぶん前から気づいていた。
ただ、彼にはなぜ正木のような天才が自分のような凡才(と若林だけは思っていた)に好意を持つのか、そこのところがよくわからなかった。
とにかく、若林にとって正木は別世界の人間で、だからこそあまり関わりあいになりたくなかった。そして、実際あまり関わりあわないでいた。あの〝桜〟の設計を振り分けられるまでは。
実際親しくなってみると――というより、そうせざるをえなかったのだが――正木も普通の人間と同じように、食べたり飲んだり、笑ったり怒ったりしていた。
それでも――若林は認めなかった。自分が正木の好意を受けるに値する人間であると。
ようは若林が正木を天才視しすぎるのである。すべての悲(喜)劇はそこから始まっていた。だが、もし正木が〝天才〟でなかったら、彼はきっとこれほど惹かれはしなかっただろう。
若林は宝石を持たされた子供だった。
すでにすべては彼の手のうちにあり、彼はただ勇気を出して、その手を握りしめさえすればよかったのだ。
しかし、彼は懐疑な子供だった。その手を動かす前に、なぜそんな高価なものが自分の手の中にあるのかと悩んでしまった。
いつまでも、悩みつづけてしまった。
かと言って捨てることもできない。その宝石は自分のものになりたがっているようにも見えるから。そして、それがまたさらに彼を悩ませることになる。
だから、正木の〝好意〟がはっきりわかればわかるほど、若林の困惑は深くなる。若林が正木を苦手とするのもそこに起因する。
そのくせ、実は嫌われているんじゃないかと思うと傷つくのだ。まこと人間の感情というものは勝手なものであった。
「そういう問題ではありません」
夕夜が低い声で正木を咎めた。
「会えるとか会えないとか、そういうことではないんです。私が言いたいのはそんなことではないんです。うまく言えないけれど、私のせいであなたがいなくなってしまうのは嫌です。この家にあなたがいないのは、正しくないと思います」
「〝正しくない〟?」
正木を目を見張っていたが、若林には何となく、夕夜の言わんとすることがわかるような気がした。
つまり、正木がいると居心地がいいということだ。自然でいられるということだ。
だが、夕夜も本当にそう感じているのだろうか。もしそうだとすると、夕夜は運動面だけでなく、感情面でも従来のロボットをはるかに超えている。人間に肉薄している。
(それはそうだ)
つかのま、今の状況を忘れて若林は呟いた。
(何しろ夕夜は、この正木が作ったも同然なんだからな)
「別におまえのせいじゃない。それだけは言っとくよ」
淡く正木は笑った。
「誰のせいでもない。俺は俺自身の意志でここを出る。いったんここを出たら、俺とおまえとは〝他人〟だ。おまえは俺の同僚が作ったロボットで、俺とは無関係だ。少なくとも、人前ではそういう態度をとれ。――わかったな?」
別段強い口調ではなかった。しかし、それ以上の異を夕夜に唱えさせないだけの力はあった。
夕夜は助けを求めるように若林のほうを見た。
目が合って、若林は困ったようにかすかに笑い、黙って首を横に振った。
彼には夕夜のように正直に〝行かないでくれ〟と言うことはできなかった。
夕夜にとって正木は〝親〟以外の何者でもないが、若林にとっては美しすぎる同性であり、優秀すぎる同僚であった。そんな人間をここに縛りつける権限なぞ自分にはない。また正木もそれを許さないだろう。――若林はそう思っていた。
夕夜の視線を追って、正木も若林を見ていた。だが、若林が何も言うつもりがないのを見てとると、苦く笑って席を立った。
「若林。あんまり夕夜を困らせんなよ」
自分の分の食器を洗いながら、正木はそんなことを言ったのだった。
――もしもあのとき、〝行かないでくれ〟と言っていたら、正木は留まってくれたのだろうか。
今さらながら若林は思った。
だが、彼には言えなかったし、その後、正木は出ていった。過ぎ去ってしまったことを悔やんでみても、仕方のないことだ。
そう思ってから、若林は目を見張った。
(何だ。悔やんでいたのか、俺は)
自らの感情を再発見して若林は驚いた。そして、整った顔を苦い笑みで歪ませた。
(俺もウォーンライトと五十歩百歩だな)
若林は深い溜め息を一つつくと、中断していた仕事を再開した。
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