第5章 Mの古傷(3) ファミレス

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第5章 Mの古傷(3) ファミレス

 そのファミリーレストランの存在を正木は知らなかった。が、そこならわかると美奈が言ったので、今行くと返信だけした。これから会うのに、わざわざ電話で話す必要もあるまい。  それよりも、その店へ行く途中でまたウォーンライトに会ったりしないかと正木は冷や冷やしていた。これは美奈も同じだったようである。若林にはわからないように何度か不安そうな視線を正木に投げかけてきた。  だが、おそらくもうウォーンライトは再びタクシーに乗って立ち去ったはずだ。〝二度と話しかけるな〟と言われてまた自分と顔を合わせてしまうかもしれないこの街をぶらつくほど、ウォーンライトは愚かではあるまい。少なくとも正木はそう思う。  とは言うものの、この世に絶対ということはない。何とか無事に到着するまで、正木は生きた心地がしなかった。 「あ、夕夜だ!」  店の中へ入る前に、美奈が窓際の席に座っている夕夜に気づいて声を上げた。  夕夜のほうもこちらに気がついて微笑みかけようとしたが、若林を見つけてぎょっとした顔になった。――無理もない。  まだ十二時前であるせいか、店内はそれほど混んではいなかった。いらっしゃいませ、何名様ですかと問われる前に、さっさと夕夜のいる席へ行く。 「いつのまにか一人増えてますね」  若林を見ながら嫌味っぽく夕夜は言った。  いかなる事情があったか知らないが、正木の若林に対する態度はいつもと同じようである。――今のところ。 「帰る途中で会ったんだ」  正木と同様〝サボったな〟と言われているように感じて、若林は苦い顔になった。めったに休まないんだから、たまにはいいじゃないか。  若林は美奈を夕夜の向かいの窓際の席に座らせると、自分はその隣に腰を下ろし、二人そろってコートを脱いだ。  当然、夕夜の隣には正木が座ることになる。ちょうど今朝の席順で美奈と夕夜が入れ替わった形になり、夕夜は軽く驚いた。  やがて、ウェイトレスがやってきて、三人分の水とおしぼりを置いて去っていった。ここはドリンクバーがないことが、逆に売りの一つなのだ。その水とおしぼりを、正木は当然の仕事のように、若林と美奈と自分とに手早く振り分けた。 「自力で捜そうかとも思ったんですが、呼び出したほうが早いかと思いまして」  夕夜がそっと正木に言い訳すると、彼は卓上のタブレットをいじりながら無表情に答えた。 「おまえはほんとに賢いよ。いま俺の前でメニューを見ている男はな、そのことに気づけなかったんだ」 「悪かったな。気づけなくて」  若林はまた苦い顔になって正木を睨んだ。  ちなみに、若林が着ているスーツは、安くもないが高くもない、グレーのシングルである。夕夜は何となく、若林のスーツにもっと金をかけてやろうと思った。 「何かあったんですか?」  まさかウォーンライトのことで……と夕夜があせったとき。 「あのねー。若ちゃん、私たちがスマホ持ってるの、うっかり忘れちゃったの」  美奈がにやにや笑って、隣の若林をちらっと見た。 「スマホ?」 「そー。うちに何度も電話したらしいんだけど、留守電になってるからって私たちと連絡とるのあきらめたんだって。そのためのスマホなのにねー」 「美奈ー」  美奈のほうは見ずに、若林が低く名前を呼ぶ。  美奈は赤い舌をぺろっと出して、肩をすくめた。 「それは……申し訳なかったですね」  自分まで一緒になってからかったら悪いだろうと思い、夕夜はそう言ったが、顔はすでにしっかり笑っていた。 「それにねー、車も忘れてきたのよ、大学に」  美奈は懲りずに、そのことまで持ち出してきた。 「車?」 「そー。今朝、若ちゃん、車乗って行ったじゃない。だけど、いつも電車で行ってるもんだから、そのつもりで電車に乗って帰ってきちゃったんだって」  今度はもう何も言ってやることができずに、夕夜はうつむいて笑いをこらえた。先ほどのウォーンライトといいこの若林といい、今日はよく笑わせてもらえる日だ。 「明日、乗って帰るよ」  笑う二体のロボットを不機嫌そうに見ながらも、若林はぼそぼそと言った。  彼は美奈や夕夜に笑われても、不快には思うが〝笑うな〟とは言わない。あえてそれを許している。  そもそも、美奈は仮にも自分の生みの親のことを〝若ちゃん〟だの〝まーちゃん〟だの呼んでいるのだ。初めてそう呼ばれたときには故斎藤教授の〝若〟以上の衝撃を覚えたが、美奈ならまあ仕方ないかと思う。そういえば彼女は敬語も遣わない。夕夜とは本当に好対照なロボットだ。 「美奈、夕夜。若林笑うのはそれくらいにして、おまえらはコーヒーでいいな?」  今まで黙っていた正木が、見かねて二人をたしなめた。  若林には言えないことを代わって言うのが、いつのまにか定着した正木の役回りである。また、正木の言うことには美奈でさえも素直に従う。一緒に暮らしてはいないのに、この威厳の差はどうだろう。 「私もたまには何か食べてみたーい」  それでも、注意されたことが面白くなかったのか、美奈は幼い子供のように頬を膨らませた。 「隣の男に言ってみろ。胃洗浄するのはそいつだからな」  正木がにやにやして頬杖をつく。 「えー。あれ気持ち悪いから嫌ー」  たちまち美奈は見るからに嫌そうな顔になった。彼女は夕夜よりも表情が豊かである。 「そんなこと言ったって、おまえたちの胃は水と糖分しか吸収できないから、固形物は洗浄しないと腐っちゃうんだよ」  美奈の言動が幼いので、ついつい若林も小学生に言ってきかすような口調になってしまう。  なお、夕夜たちの〝胃〟は人間のそれとはまったく別物で、むしろ腸のように吸収のみをする。そして他に彼らに消化器官はない。 「んじゃあ、美奈。おまえはこれにしろ」  〝娘〟可愛さからか、正木が苦笑いしながらタブレットを見せた。 「〝昔ながらの杏仁豆腐〟だってさ。これなら汁がある。おまえは汁だけ飲め。あとは俺が食ってやる」  とたんに美奈の顔がぱっと輝く。 「わーい、まーちゃんありがとー! 大好きー!」 「へえへえ。――で、夕夜は?」 「僕はコーヒーでいいです」  美奈にまたあの嫉妬を感じて、夕夜は不覚にも少しすねた声を出してしまった。正木はやや驚いたように夕夜を見たが、すぐに苦笑を漏らした。 「じゃあ、ちょっと成分は残るかもしれないが、おまえはアイスティーにしとけ」 「アイスティー?」 「あれならガムシロップつくから、無理なようなら、それ水に混ぜて飲んどけよ。そしたら、アイスティーのほうは俺が飲んどくから」  夕夜は茫然として隣の正木を見た。  言葉遣いが乱暴で気も短いので、傍若無人なように思われがちな正木だが、その実、彼は神経が細やかである。夕夜がいじけているとすぐに気がついて、何らかの反応を示してくれる。  これは〝鈍感〟若林にはとてもできない芸当だ。だからこそ、夕夜も美奈も若林より正木を慕うのだし、自分たちとずっと一緒にいてほしいと思うのだ。 「さてと。最後はおまえだ、若林。もうさんざん時間をやったんだから、いいかげん決まっただろうな?」  先ほどから顎に手を当ててしきりと悩みこんでいる男を、正木は冷ややかに見やった。それを聞いて、さすが正木だと夕夜は思った。  若林はメニューを決めるのにやたらと時間がかかるのである。だから、急ぐときは店に入る前に、今日は絶対これを食べると決めておかなければならない。  〝鈍感〟に並ぶ若林の欠点の一つが、この〝優柔不断〟だった。ただし、正木がからむ勝負を受ける決断だけはいつも異常に早い。 「うーん……今日は特に何も考えてこなかったからなあ……」  案の定、若林はそんなことを呟いていたが、ふと思いついたように顔を上げると、自分の正面の正木を見た。 「今日、夕飯何だ?」  一同、言葉を失った。  若林は夕夜でも美奈でもなく、居候(まだ一晩しか泊まっていないが)の正木にそんなことを訊ねているのである。  だが、正木はかつてこの男と同居していたとき、出かける前に必ず今日の夕飯は何だと訊かれたことを思い出した。何のためにそんなことを訊いていくのかと思ったら、夕飯のおかずによってその日の昼に何を食べるかを決めていたらしい。たとえば夕飯はカレーだと言われたら、昼にはカレー味のものは絶対食べないとか。  しかし、実際問題、朝の時点で夜の飯のことなど考えていられない。が、正木がわからないと答えたら、この男が何だかがっかりしたような顔をするので、仕方なく夜に翌日の夕飯の予定を立てることにした。考えてみると、とても手間のかかる男だった。  だが、実は正木はそう問われるたび、〝自分のいない間に出ていったりするな〟と釘を刺されているように感じていた。本人にそのつもりがあったかどうかは謎だが(たぶん意識していなかっただろう)、正木にはそう思えて、なかなかあの家を出ることができなかった。  そして、今またそのセリフが出てきたということは……ああ、ウォーンライトのことがなかったら、素直に喜べるのに!  しかし、先ほどとことんまで落ちこんで、かえって正木はさっぱりしてしまった。  今もって若林の態度は全然変わらないし、例の話も若林がしたくなかったなら、それでもういいではないか。もしも自分が若林と同じ立場にあったら、やはり話せずに終わっていたと思う。  だから、今は与えられた状況をせいいっぱい楽しもう。あのときあそこでひょっこりと若林が現れたのも何かの縁だろう。こうなったら思いきり刹那主義に走ってやるさ。 「鱈ちり」  何となく頭に浮かんだものを正木は口にしてみた。  てっきり〝どうしてそんなこと俺に訊くんだ〟とか〝夕夜に訊け〟とか言うとばかり思っていた夕夜と美奈は、若林のとき以上に驚いて今度は正木を見た。 「へえ、鱈ちりかあ。いいなあ。ずいぶんと久しぶりだ」  だが、若林はすんなり正木の答えを受けとって、機嫌よく笑った。  〝鈍感〟だとばかり思ってきたが、実は〝器が大きい〟……のかもしれない。 「だから、おまえは……そうだな、これにしとけば? これならそうはずれはないだろ」  正木は身を乗り出して、若林の持っているメニューの一つを指さした。  それを見て若林がしごく感心した顔をしてうなずき、じゃあそれでいいやと言った。――いいコンビである。 「じゃあ、これで全員決まったな。頼んじまうぞ」  正木はタブレットを操作して、あっというまに全員分の注文を済ませた。  ――やっぱりうちには、この人がいなくちゃ。  正木の仕切りのうまさに、夕夜と美奈は感動すら覚えて彼を見つめたのだった。
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