第6章 Yの憂鬱(1) ファミレス(1)

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第6章 Yの憂鬱(1) ファミレス(1)

「そういや、若林」  注文し終えた後、ふと思い出したように正木が言った。 「うちに何度も電話かけたって言ってたけど、おまえ、何の用があったわけ?」 「――そうだ。忘れてた」  正木に指摘されて、若林はまた思い出した。  昨日から、どうも忘れっぽくなっている。二日酔いはないが、これも酒の影響ではなかろうか。 「今朝うっかり訊き忘れて……大学でそのことに気づいてから、ずっと気になってたんだよ」  ――まさか……!?  若林を除いた三人に緊張が走る。  せっかく開き直る気になったのに、またあの話を蒸し返すつもりなのか、若林! 「実は……夕べのことなんだけど……」  息を詰めて自分の出方を窺っている三人に気づいているのかいないのか――たぶん、きっと気づいていない――若林は人差指で自分の頬を掻いた。困ったときの癖である。  三人は〝夕べ〟と聞いてひとまず安心はしたが、今度はいったい何を言い出すつもりなのだろうと互いの顔を見合わせた。 「俺……」  ためらいがちに若林は言った。 「酔っぱらって……何かしなかったか、その……おまえに」  正木は一瞬、何を言われたかわからなくて切れ長の目を見張り――そして大笑いした。 「な、何だっ?」  こういう反応は予想もしていなかったので、若林はたじろいだ。  夕夜と美奈は、若林の問いとそれに対する正木の反応の両方に驚いている。 「だっておまえ――それずっと気にしてたわけ? 今朝から? わざわざ電話までして? 仕事もサボって?」  それだけ言って、正木はまたひーひー笑いはじめた。 「だって、気になるじゃないか! 俺には夕べビール飲んだ後の記憶は全然ないんだぜ? おまえがいつうちに来たのかさえ覚えてないんだ! おまえはいつもたいしたことないって言って何にも教えてくれないけど、俺って酔っぱらうとおまえにからむんだろ? それも全然記憶にないし、ほんとに気になって気になってしょうがないんだ! 頼む! 今度こそ本当に教えてくれ! それがどんなことでも俺は受け入れるから!」  真剣な表情でそう迫られて、正木はようやく笑うのをやめた。  まさか若林がそんなささいなこと(と正木は思っていた)をこれほど気にしていたとは。かえってウォーンライトのことを言われるよりも困ってしまう。  確かに若林は酔っぱらうといつも自分にからんできた。しかし、それで何を言うのかといえば、決まってロボットの話なのである。  ロボットはどうあるべきかという精神論から、どこそこのロボットはセンサー面は優れているが油圧系統が弱いとかいう専門的な話まで、それこそロボットおたく丸出しで延々と話してくれるのである。  しかも、若林は酔っていても論旨がしっかりしているから、誰にも適当にあしらうことができない。下手なことを言うと、逆に容赦なく突っこまれるからだ。  ゆえに、酔うと若林は唯一自分の話についてこられる正木を相手にするしかないわけで、正木はそれを狙っていたからこそ、いつもわざわざ若林に酒を飲ませていた。  本当はそれ以上のことも狙っていたのだが、するとしても若林は自分を思いっきり抱きしめるくらいで、その点でも正木の期待を裏切ってくれた。  さらに、この男はどんなに酔っぱらっても一人でちゃんと自分の家に帰れてしまうのだ。そのくせ酔っている間のことは全然覚えていないなんて、馬鹿にするにもほどがある。 「夕夜」  正木はいきなり隣の夕夜の肩口を叩いた。 「俺の代わりに、夕べのことを話してやれ」 「私がですか?」  突然話を振られて夕夜は驚いた。  彼は驚くと、〝僕〟から以前遣っていた〝私〟に戻ってしまう。そのことには自分では気づいていない。 「嘘つきの俺が言うより、おまえが言ったほうが信憑性があるだろ」  正木はいじけたように言って水を飲んだ。  実は単に説明するのが面倒になっただけなのだが、若林は正木の気分を害してしまったと思ったらしい。 「いや、俺はそんなつもりで……」  しどろもどろになって、そんな弁解をしてきた。 「そうですね。まず、昨日僕たちが正木博士と一緒に帰宅したのが六時ちょっと過ぎで、そのときすでにあなたは酔っていました」  あわてて正木の機嫌をとりむすぼうとしている若林に、夕夜はつい笑ってしまった。 「ええと……確かもう缶ビールを二缶くらい空けていましたね。しばらく正木博士があなたにつきあって飲んでいましたが、そのうちあなたが寝てしまって、正木博士と僕が苦労してあなたを寝室まで運んでいって、ベッドに寝かせてあげました。それが九時ちょっと前でした。あ、それからあなたにパジャマを着せたのは僕です。念のため。――以上が昨晩の出来事ですが、何かご質問はありますか?」  本当は玄関で会いたかったと叫んで正木を抱きしめているのだが、それは正木に口止めされているので若林には言わない。 「俺……おまえにまで酒を飲ませてたのか」  若林は自分で自分が怖くなった。 「飲ませてたって……俺が勝手に飲んでただけだよ。夕夜につまみ作らせてさ。――ほんとのこと言うと、おまえは酔っぱらうと、ロボットの話を延々するんだよ。しかもそれがむちゃくちゃマニアックなもんだから、みんなついていけなくて、結局俺がいつも一人で聞いてるんだ。だから周りにはおまえが俺にからんでるように見えたんだろ。俺はおまえの話、面白がって聞いてたんだけどさ。  何心配してるんだかしんないけど、酔ってもおまえ、暴れるとか裸になって踊り出すとか、んな変なこと全然してないぜ。話が多少くどくなるくらいで、おとなしいもんだよ。夕べも別におまえがそんなに心配するようなことは何もしてねえ。何だったら美奈にも訊いてみろよ。おまえが何か面白いことしてたら、そいつが黙ってるはずがないからな」  若林は無言のまま、今度は美奈に顔を巡らせた。  美奈はきょとんとした顔をしていたが、 「夕べ? 若ちゃん、リビングで、まーちゃんと一緒に酒盛りしてたわよ。私、その横で、ホステスしてたんだもの」 「ホステスッ!?」  若林はびっくりして美奈から身を引いた。 「バカ、何言ってんだ。――たまにビール注がせてたんだよ。暇そうにしてたから」  若林の狼狽ぶりに正木は苦笑して付け加えた。これだから美奈は面白い。 「しつれーね!」  美奈が不満そうに赤い唇をとがらせる。 「ほんとは私、見たいテレビあったのよ! だけど二人が語りに入ってるもんだから、テレビつけられなかったんじゃない!」 「語り?」  何気なく若林は問い返した。 「うん。ロボットの話もしてたけど、昔の話もしてた。サイトーセンセがどうとかこうとか。私は全然知らないから、そばで聞いててもよくわかんなかったわ」  美奈がそう答えたとき、ウェイトレスが来て、美奈の杏仁豆腐と夕夜のアイスティーと若林と正木のコーヒーを置いていった。ランチのほうはまだかかるらしい。 「わーい、杏仁、杏仁」  妙な節をつけて美奈は言い、さっそくスプーンで汁をすくった。 「くれぐれも固形物は食うんじゃねえぞ。汁だけだぞ」  正木がしつこく注意する。 「わかってるわよー。私だってバカじゃないもん」 「バカ。おまえだから心配なんだ」  その正木の隣では、夕夜が神妙な顔つきでアイスティーのストローに口をつけていた。 「飲めそうか?」  実は夕夜のことも心配だったらしく、正木はやや眉をひそめた。 「はあ……でも、苦いものなんですね、これ」 「苦い? これが?」  驚いたように声を張り上げた正木は、夕夜の手から強引にストローを奪いとり、自分もアイスティーを飲んだ。 「おまえ甘党か? もしかして?」  不審そうにそう言ったところを見ると、正木には苦く感じられなかったようだ。 「さあ……そうなんでしょうか?」 「うーん……とりあえず、ガムシロップ入れてみたら?」 「そうですね」  夕夜はにっこり笑い、一緒についてきたガムシロップを、何の躊躇もなく全部アイスティーの中に注ぎ入れた。 「ゆ……夕夜……」  顔面を凍らせている正木に対し、夕夜は平然とストローをかき回して一口飲むと、 「あ、今度はちょうどいいです。おいしいです」  と嬉しそうに言った。 「おまえそれ、責任もって全部飲めよ。俺は絶対飲まないからな」  そのアイスティーを視界に入れないようにしながら、正木は自分のコーヒーには何も入れずに飲んだ。彼は甘いものが大の苦手なのである。 「どうした? ぼーとして?」  じっとコーヒーを見つめたまま飲もうともしない若林に、正木は怪訝な視線を投げた。 「いや……ちょっと斎藤先生のことを思い出していた。――そうか。そんな話をしていたのか。全然覚えてないよ。残念だな」  若林は苦く笑って、コーヒーに砂糖とミルクをそれぞれ妥当な量だけ入れて飲んだ。 「まあ、それだけでもないけどな。俺も何話したかよく覚えてない。とにかく、おまえは俺に何もしちゃいないよ。でもおまえ、やっぱ酒はやめといたほうがいいわ。飲むたび記憶喪失じゃ困るだろ」 「――これからは絶対飲まないよ」  恐縮して若林は大きな体をすくませた。  その様子に正木は思わず笑ってしまったが、それはすぐに苦笑になった。 (ほんとに覚えてないんだな)  わかっていたこととはいえ、こうしてはっきり知らされると、やはり寂しい。  確かに昨晩あったのは、いま夕夜と美奈が言ったとおりのことだ。ただし、玄関で自分に抱きついてきたことだけは若林に言うなと二人に口止めした。二人とも正木に言うなと言われたことは絶対に言わない。彼らも若林がそのことを知ったら立ち直れないことをよくわかっているのだろう。  だが、実はまだもう一つだけ、若林には隠していることがあるのだ。そして、これは夕夜も美奈も知らない。  昨晩、リビングで若林が眠りこんでしまった後、一時はこのままここに寝かせておこうかということになったのだが、正木が風邪を引かせたらまずいからと主張して、一九一センチメートルもあるこの男を、正木と夕夜とで両脇から支えて二階の寝室まで運んでいった。  くーくー寝ている若林をダブルベッドの上に放り出した後、夕夜がパジャマを持ってくると言って階下に戻っていった。  それはその間の、わずかな時間に起こった。  ベッドのへりに腰かけて、人の気も知らないでこの野郎、でもやっぱりいい男だなどと思いながら若林の顔を見ていたら、それが聞こえでもしたように、若林がふっと目を開けて自分を見た。  何だよ、起きてたのかよと正木はあわてて言ったが、若林は寝ぼけたような顔をしていて、正木のこともよくわかっていないようだった。  これは寝ぼけているなと正木が溜め息をついたそのとき。  若林は切なそうに眉をひそめて、突然正木の腰を抱き、低い声で、しかしはっきりとこう言ったのだ。  ――もう、どこにも行くな。  心臓が止まってしまうかと思った。  嬉しくて嬉しくて――すぐにはとてもうなずけなかった。  それでも、正木が〝うん〟と答えようとしたとき、いきなり若林の腕がゆるんだ。  もしやと思ったときには案の定、若林は再び眠りの世界に落ちていた。  いつものパターンだ。  そのとき、夕夜が階段を上がってくる音が聞こえてきて、正木はあわてて若林から離れた。  きっと、あれは寝ぼけていたのだろう。おまけに酒も入っていた。  でも――あれが若林の本音なのだと信じたい。四年前、自分を引き止めなかったことを若林が後悔していたのだと思いたい。  若林が行くなと言うなら、自分はもうどこへも行かない。  ずっとここにいる。  そばにいる。  それなのに、いつだって若林は勝手に言って、さっさと逃げていってしまうのだ。正木の返事は聞きもしないで。 (卑怯者。ああいうことされるから、俺はもう十七年もおまえと縁が切れないんだ)  その若林は、美奈に若ちゃんにも食べさせてあげるーと杏仁豆腐を乗せたスプーンを差し出され、え、俺にもくれるのかと相好を崩して口を開けていた。もうすっかりいい〝お父さん〟である。  だが、正木は思った。  ――許すまじ。美奈。
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