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第1章 Mの災難(2) 正木宅前
「というわけで、この荷物、あなたのところで預かってもらえますか?」
「何が、というわけだ? 何が?」
にっこり微笑む夕夜に、正木は無愛想に言い返した。両手は『男なんだから持ってよね』と美奈に押しつけられた手提げの紙袋で塞がっていて、両脇は夕夜と美奈に固められている。
外はすでに暗くなっていた。夜の冷気が肌を刺す。
正木のアパートは大通りから少しはずれたところにあるので歩いて帰れるが、若林の家はこの街から二駅離れている。実はそれを踏まえたうえで、夕夜たちはこれほど大量の買い物をしたのだが。
「荷物が多けりゃ、宅配便にでもすりゃーいいじゃねえか」
白い息を吐きながら、正木はぶつぶつと文句を言った。
「あなたが預かってさえくれれば、ただで済むんじゃないですか。僕は余計なお金は遣いたくないんです」
すかさず夕夜が反論する。当然その息は白くはならない。
「俺にしてみりゃ、この買い物自体、充分無駄金だと思うけどな」
聞こえよがしにそう呟いてみたが、人間以上に優れた聴覚を持つはずの夕夜たちは、今度は何も聞こえなかったかのように知らんぷりを決めこんできた。
つくづく憎たらしい。だが、そのときふと周囲が騒がしいのに気がついて、正木は顔を上げた。
「何だ? 事故か?」
「……火事みたいですね」
消防車のサイレンの音を聞いてから夕夜が答えた。
「ふーん。冬場は乾燥してるからなー。おまえらも気をつけろよー」
まったく他人事のように正木は言い、そのまま我が家に向かって歩きつづけた。
「僕の気の回しすぎかもしれませんが……」
少し経ってから、夕夜が口を開いた。
「今、消防車が行ったのは、博士のアパートの方角では……?」
その瞬間、正木は猛然と走り出した。その後をあわてて夕夜と美奈が追いかける。
通常、ロボットは瞬発力に欠けるものだが、彼らは人並みの運動性能を持つ。特に夕夜は人並み以上だ(が、持久力はない)。とは言うものの、このときの正木に追いつくことは、夕夜たちでさえも至難の業だった。
「いったい、どうしたんですか!」
正木の背中に夕夜は叫んだ。正木は前を向いたまま叫び返す。
「嫌な予感がする!」
夕夜と美奈は、走りながら顔を見合わせた。
正木の勘は異常なほどよく当たる。この間も金が足りないからと言って競馬場へ行き、財布の中の百円玉を一万円札に化けさせた。
それでも、普段めったに賭け事をしないのは、本人いわく〝当たりすぎて面白くないから〟。ゆえに、二人は黙って正木の後を走りつづけた。
アパートに近づくごとに人の数は増え、物が燃える臭いが強まっていく。
やがて、ビルの陰から雨雲のような灰色の煙が現れた。すでに日はとっくに暮れているのに、空の一部分だけが夕焼けのように赤い。
ひときわ人込みができている二階建てのアパートの前で、ようやく正木は立ち止まった。
先ほどサイレンを鳴らしていた消防車も到着していて、野次馬どもをかきわけながら消火活動にあたっている。
幸い、このアパートだけで火は食い止められそうだ。しかし、まだちろちろと赤い炎が上がっているアパートを、正木は茫然と見上げているより他はなかった。
「あっ、燃えてるー」
そんな正木の横で、美奈がまるで花火でも見ているかのような楽しげな声を上げた。
「ああ、これは全焼ですね。犠牲者がいなければいいんですが」
完全に他人事の口調で夕夜が言う。正木は思わず額に手を当てて呻いた。
「俺の……俺の部屋が……!」
その間に、夕夜は近くにいた警察官に何事か話しに行き、またすぐに戻ってきた。
「出火原因はまだわからないそうですが、出火場所は一階のようです」
嫌味なくらい冷静に正木に報告する。
「少なくとも、博士の部屋ではないようです。よかったですね」
「よかったもクソもあるか!」
ショックのあまり、正木は我を忘れて喚き散らした。
「どこから火が出ようが、燃えちまえばおんなじだ! せっかく集めた資料も何も、みーんなパーだ!」
「お気の毒には思いますが、それは他の部屋の方も同じですから。それから、あなたを含めてアパートの住人はちょうど全員留守だったそうで、犠牲者は一人も出なかったそうです。――僕らと出かけていてよかったですね」
「ああ、よかったな」
ぶっきらぼうに正木は言った。
「でも、俺の部屋は犠牲になったわけだな」
「まーまー」
夕夜と美奈がそろって正木の肩を叩く。
「済んだことをくよくよしたって始まりません。しかもこれはあなたのせいではないんですから。物事を前向きに考えるのがあなたの主義でしょう? 今問題なのは、ここでこのアパートの最後を見届けることではなく、これからどこで寝泊まりするかということでしょう。――当てはあるんですか?」
「ホテルにでも泊まるさ」
投げやりに正木は答えると、踵を返して歩きはじめた。
「でも、それじゃいろいろお金がかかるでしょう? 僕はただで、しかもいつまでも滞在できるところを知っていますよ」
ぴたっと正木は立ち止まり、眼光鋭く夕夜を見た。
「まさか……おまえらがこの火事を起こしたわけじゃないだろうな……?」
「滅多なことを言わないでください」
内心ラッキーと思っていた後ろめたさもあり、夕夜は必要以上に怒っているふりをした。
「放火は重罪ですよ。下手をしたら人を殺すことにもなります。それに、どうして僕たちがそんなことをしなければならないんですか?」
「……そうだな。これは失言だった。悪かった」
正木は少しすまなそうな顔になった。
一見、傲慢そうに見える正木だが、自分の非はたとえロボット相手でも素直に認める。正木のそういうところが夕夜たちも好きだし、おそらく若林も惚れてやまぬところなのだろう。
「でも、言われる前に言っちまうが、おまえの言うそのただで泊まれるってとこが若林のとこなら、俺は断固として行かねえぞ。それは当然わかってるだろうな?」
「ええ、わかっていますとも」
美奈に肘でこづかれながらも、夕夜は満面に笑みをたたえた。
「でも、あなたがうちに来たくないのは、うちに若林博士がいるからであって、うち自体に来たくないわけではないでしょう?」
「……どういうことだ?」
「実は今、若林博士は出張中なんです」
ぬけぬけと夕夜は言った。
その脇で、美奈が呆れたように黒い瞳を見張っている。
「帰ってくるのは一週間後。これだけあれば、その間に新しいアパートを見つけることもできるでしょう。そうじゃなくても、とりあえず今夜のところはうちに泊まっていったらどうですか? 僕たちだけなら別にかまわないでしょう?」
「……本当だろうな?」
いかにも不審そうに正木は眉をひそめた。
夕夜はあまりにも〝優秀〟なため、生みの親たちでさえ平気で欺く。もちろん、それは悪意によるものではなく、いつも何らかのもっともな理由のもとに行われていたのだが、夕夜が若林と自分とを何とかして結びつけたいと思っていることは、正木がまだ若林の同僚だった頃から感づいていた。
なぜ夕夜がそんなことをしたがるのか、正木もわかってはいるのだが、それ以前に余計なお世話だという反発が先に立ってしまう。だから、夕夜に若林に会えと言われれば言われるほど、逆に会いたくないと思ってしまうのだ。
「もちろん本当ですよ。ねえ、美奈」
美奈はあわててうなずいた。
「うん、ほんとよ、ほんと」
怪しい。
正木はまだ信じられずに、二人をじとっと見ていた。
「そんなに僕らが信じられませんか?」
世にも悲しげに夕夜は眉根を寄せた。正木がたじろいだくらいだから、若林だったらすぐさま弁解に回っていただろう。
「俺だって、別に好きでおまえらを疑ってるわけじゃないが……もし、仮に今からおまえらの家に行ったとして、そこに若林がいたとしたら、おまえら、どう責任をとるつもりだ?」
「じゃあ、もし本当に若林博士がいなかったとしたら、あなたはどう責任をとるつもりですか?」
やんわりそう切り返されて、正木は言葉に詰まった。
またしても夕夜のペースにうまくはめられているような気がしたが、今さら引き下がるわけにはいかない。そこで、正木はついこんなことを言ってしまった。
「だったら、さっきおまえらがさんざん言ってた、クリスマス・パーティとやらに参加してやるよ」
「ほんとにっ?」
そう声を上げて喜んだのは、美奈のほうだった。
「ああ。で、おまえらは? これが嘘だったらどうする?」
「どうせ嘘だとわかるのに、わざわざ嘘をつく馬鹿はいないでしょう」
まったく動じず、夕夜は一笑に付した。
「でも、どうしてもとおっしゃるのでしたら言いましょう。――もしこれが嘘でしたら、僕たちはもう二度とあなたに干渉いたしません」
「夕夜!?」
喜びの表情もつかのま、美奈は驚愕して夕夜を見た。
これには正木も驚いた。
正木は若林に会うことは嫌ったが、夕夜たちに会うことは、実のところ、それほど嫌ではなかった。おそらく、夕夜たちも正木に会うことを楽しみにしているはずである。
それなのに、こんなことを自分から言い出すとは。やはり夕夜は真実を言っていたのだろうか。
それを裏づけるかのように、夕夜は一片の後ろめたさも動揺も見せず、静かな自信に満ちた微笑を浮かべていた。
「OK。いいだろう。そこまで言い切るなら行ってやる」
不敵に笑って正木は言った。
「だが、覚えとけよ。それでもし若林がのこのこ出てきたら、その場で俺はおまえらと縁切りするからな」
口ではそう言いながら、心の中では、自分は若林に会いたくなかっただけで、こいつらと絶交したかったわけじゃないんだがなと呟いてみる。
もしこれが夕夜得意のはったりだとしたら、夕夜はいったいどうするつもりなのだろうか。
「あなたも忘れないでくださいね」
そんな正木の複雑な心中を知ってか知らずか、夕夜だけが変わらずにこやかなままだった。
「クリスマス・パーティに何があっても参加、ですよ。じゃ、我が家に行きましょうか」
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