第8章 Wの挑戦(3) ロボコン会場・控室

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第8章 Wの挑戦(3) ロボコン会場・控室

「なーんか、この前と全然雰囲気が違ーう」  場内に入るなり、美奈が目をきょろきょろさせて言った。  上に着ていた毛皮は今回限定で設けられたクロークに預けてきた。スリー・アールはそういうところは気が利く会社ではある。 「今回のコンテストは、パーティーみたいなもんだからな。だからこんなフォーマルな格好させたんだろ」  醒めた表情で正木は肩をすくめてみせた。  正木の言うとおり、場内はすっかりパーティーの様相を呈していた。  座席の代わりに各所には豪華なオードブル料理や酒が所狭しと並べられたテーブルがあり、そこにまるで菓子に群がる蟻のように集まっている客の間を、ホテルから出張してきたのか、それともやはりスリー・アール社製のロボットなのか、給仕の人々が黙々と立ち働いていた。  もともと広い会場なので、これだけ人数がいても――確実に千人以上はいる――閉塞感はないが、やはり見ていて気持ちのいい光景とは言えない。  舞台にはまだ真紅の幕がかかっていた。とにかく広いため、舞台から離れていてもわかるよう、壁面にはディスプレイがずらりと並んでいる。さらにあの幕が上がるとその奥には巨大なスクリーンがあるのだ。  そのため、このホールは本来のロボット・コンテスト会場として以外にも様々なイベント会場として利用されている。もちろん、他のロボット・コンテストでも要請があれば貸し出すが、今のところそういう申し出はないとスリー・アールは言っている。 「ねえ、若ちゃんたち、どこにいんのかなあ?」  そう言って、美奈が隣の正木を見上げたときだった。 「あーら、美奈ちゃん、今日はまた一段と可愛いわねぇ!」  あの少しハスキーな女の声が、二人の背後で上がった。 「出たな、千代子」  引きつった笑みを浮かべて正木は振り返った。美奈は一瞬にして正木の背中に張りついている。 「何よ、それ。人を幽霊か化け物みたいに言わないでちょうだい。私、ここのファンなんだから」  呉千代子博士はむっとしたように黒手袋のはまった手を口元にやった。  今日の千代子は鍔広の黒い帽子を斜めに被り、黒のロングドレスに身を包んでいた。女性としては背の高い彼女がそんな格好をすると、まるで本物のモデルのように見える。 「それより、美奈ちゃぁあん、可愛いわよぉう! 今日の私たち、まるで姉妹みたいね! ほら、同じ黒ずくめで! 何だったら〝お姉様〟って呼んでもいいのよぉう?」  一転して、千代子は甘ったるい声で美奈を口説きにかかった。  怯えた美奈が必死で正木の背中に隠れようとする。 「いやーっ、いやーっ、何でまーちゃん、黒いドレスにしたのよぉう! ちーちゃんとおそろは嫌だよぉう!」  でも、セリフだけ聞いているぶんにはよく似ている。 「千代子。おまえ、まだ美奈あきらめてないのか? 先月負けたろ」  正木が呆れて溜め息をつく。 「だから何よ。人生は挑戦の連続よ」  すっかり開き直ってしまった千代子は、ぐっと握り拳を作った。 「それにあきらめの悪さなら、あんた、人のこと言えないわよ。でも、この二週間はさぞかし楽しかったでしょうねえ」  千代子は口元に手を持っていき、アーモンド型の目を三日月にして、さっそく例の〝奥様笑い〟をご披露してくれた。  いつもならそこでくじけてしまう正木だが、今日はすみやかに反撃に出た。 「おまえこそ、二週間も〝いい男〟と同棲できて楽しかったんじゃないのか?」  千代子の顔からすっと笑みが引いた。しばらく無言のまま睨みあう。が、唐突に彼女はにやりと笑った。 「あんまり頭よすぎると、誰ももらってくれないわよ」 「おまえ見てるとよくわかるよ」  正木も不敵に笑って答える。  この二人の関係はいいのか悪いのかよくわからない。しかし、それより二人の話している内容が美奈にはさっぱりわからなかった。もしここに夕夜がいたら、彼はすぐに〝いい男〟がウォーンライトのことであると察したはずである。 「〝いい男〟って言ったってねえ……どっちも興味の対象外だからねえ……それに私、あんたのお古なんか絶対嫌よ」  細い眉をひそめて千代子はきっぱり言いきった。 「お古……まあ、そうなるか。でも、あいつ、〝アリス〟連れてきたろ? あれなんか、まさにおまえ好みなんじゃないのか? いかにも可愛らしー感じで」 「〝アリス〟? ……ああ、あの可愛いげのないロボットね」  意外なことに、千代子は見るからに嫌そうな顔になった。 「あれは私好みじゃないわ。顔はともかく性格が嫌よ。高慢ちきでさ、私のモエのこと無視するのよ、無視! 相手にさえしないの! 正直言って、今日で帰ってくれてせいせいするわ。やっぱり私には美奈ちゃんだけよぉ!」 「いやーっ、いやーっ」 「でも、元はと言えば、おまえが呼び寄せたんだろ?」  正木が冷ややかに千代子を見る。  彼女は真顔で舌をペロッと出した。 「別に呼び寄せちゃいないわよ。あっちが勝手に乗りこんできたのよ。私はただ、宿を提供してあげてただけよ」 「若林の家も教えたろ?」 「いいえ?」 「十日の朝、あいつと一緒にタクシー乗ってたな?」  これには千代子は少しばかり驚いた顔をしたが、すぐになぜか嬉しそうに笑った。 「ほんとにあんた、とんでもない頭してるわね。でも、一つだけ違ってるわ。タクシーじゃないわよ、私の車。うちの研究所が見たいって言うから、あの日、あいつ乗せていったのよ。それで、あいつが昨日若林にあんたのことどう思ってるか訊きそびれたって言うから、じゃあ今から確かめてみればってスマホ貸してやったの。そしたら、あんたが出たんでしょ? 私、思わず笑っちゃったわよ! いやあ、電話切った後のあいつの顔、見せてやりたかったわぁー。もう、真っ青になっちゃってさ、今すぐ若林の家に連れていってくれって、すごい形相で私を睨むのよ。で、しょうがないから私は車をかっとばして、あいつを若林の家の近くに送ってやったわけ。了解?」 「ああ……そうか、おまえの車だったのか……そこまでは気づかなかった。これは盲点だったな」  顎に手をやって正木はぶつぶつ呟いた。タクシーではなく千代子の車だったことを見抜けなかったことが、彼にはことのほか悔しいらしい。  ここまでくれば、美奈も二人がウォーンライトのことを話しているとわかったが、ではなぜ正木がそこまでわかったのかは見当もつかなかった。 「あんた、そこまでわかれば大したもんよ。あいつ、あんたにはタクシー乗ってたって言ったって言ってたもん。私はどうせ連絡先の電話番号でそのうちバレると思ってたけど、とうとうあんたたち、一回もかけてこなかったわね」 「かけたよ」  まだ難しい表情をしたまま、正木はさらっと言った。 「その十日の午後に、夕夜が間違い電話のふりしてさ。おまえのモエが出たそうだぜ」  たちまち千代子は渋い顔になって正木を睨む。 「あんたって姑息ね」 「それはお互い様だろ。ところで、ヘンリーはどうした? 一緒じゃないのか?」 「来たのは一緒だけどね。たぶん、控室じゃない? 愛しい〝アリス〟ちゃんと一緒にさ。私は今回もあんたが来ると思ってたから、ここでずっと待ってたのよ」  そう答えてから、急ににやにやしだす。 「あんたのほうこそ、愛しの〝ダンナ〟はどうしたのよ? 一緒に来たんでしょ?」 「〝ダンナ〟って……おまえな……」  正木はつい赤くなって口元を覆った。でも、悪い気はしない。  そんな正木の反応を見て、千代子は哀れむような表情をした。 「あんた。まだ待ってんの?」  その一言で、正木の顔から笑みが消えた。 「無理よ。もうずっと昔から言ってるでしょ。あの男はね、確かにあんたのこと好きだけど、そういう対象には見られないの。若林の〝好き〟とヘンリーの〝好き〟とは、全然種類が違うのよ。もう期待するのはやめときなさい。〝元同僚〟としてならつきあっていけるんだから」  正木はうなだれて、千代子の言葉に耳を傾けていた。  どんなにきついことを言っていても、結局、この女がいちばん正木のことを気にかけてくれている。  昔からそうだった。お互い絶対恋愛関係にならない相手だったから、いつでも対等でいられて、何でも話しあえた。自分が若林を愛していることを打ち明けたのも、斎藤教授以前には千代子だけだった。  最初からこの女は言っていた。若林はあんたと同じようにはあんたを愛してくれない。  しかし、正木にはその意味がわからなかった。愛しているのなら、当然自分の体も欲しいと思うはずだ。それがない若林は、自分を愛していないのではないか?  だが、今はその意味がわかるような気がする。この二週間、一緒に暮らしているうちに、ようやく気がついた。  この男は、自分がそばにいるだけで満足している。  そういえば、あの夜の寝言だって、〝もうどこへも行くな〟だった。〝好きだ〟でも〝愛している〟でもはたまた〝おまえが欲しい〟でもない。〝もうどこへも行くな〟。  それは確かに嬉しい。でも、自分のこの欲望は、いったいどこへ持っていけばいいのだろう。  抱きしめて、キスして、愛撫して、そして――  きっともう、これほど誰かを愛することなんてない。一生縛りつけられてもいいとさえ思ったのは、あの男が生まれて初めてだった。  それなのに、よりにもよってあの男が、彼が最も愛したあの男だけが、少しも彼の体を欲しがってくれない。彼のほうは欲しくて欲しくてたまらないのに。むちゃくちゃに引き裂かれたってかまわないのに。  それとも――だからか。  決して自分に手を出さなかった男。自分を束縛しようとしなかった男。  今回のことも含めて、もうずいぶん自分のために迷惑を被ってきているはずなのに、あの男はいつも何も言わない。ただ黙って受け入れる。そうする義務なんか全然ないのに。  若林はまるで騎士のようだ。正木のために働くことを当然のことのように思っていて、何の見返りも求めない。だから愛しい。だから憎い。  愛し方が違うのなら、やはり自分は若林をあきらめたほうがいいのかもしれない。あとで苦しむのは自分のほうなのだから。  そこまで考えて、正木が一気に落ちこんだときだった。 「あ、来た!」  心配げに正木を見上げていた美奈が、会場の中心のほうを見て声を上げた。 「来たって……」  正木と千代子もそちらのほうを見る。そして、すぐに誰が来たのか理解した。 「若林――」  夕夜に先導されて人込みを縫うように歩いてくる若林は、周囲よりほぼ頭一個分高いので、遠くからでもすぐにわかる。  つい今さっきまでこの男をあきらめることを考えていたのに、いざこうしてその姿を見てしまうと、やはり決心が鈍ってしまう。  好みなのだ。めちゃくちゃ好みなのだ。自分より背の高い男はいくらでもいるが(正木にとってこれは必須条件だった)、さらに顔がよくって、頭もよくって、人間もできている男なんて、そうざらにはいない。ウォーンライトはその数少ない適合例ではあったが、やはり若林がいちばんだ。ちょっと間抜けなところもたまらなくいい(これはもう〝あばたもえくぼ〟というやつである)。  大学を出てからの心配事といったら、若林がいつ結婚するかだった。相手が男だったら何としてでも阻止してやるが、ごく普通に女だったらもう泣いてあきらめるしかない。  幸いにして若林はいまだ独身だが、どうしてこんなにいい男なのに女に縁がないのだろうといっそ不思議に思ってしまう。女のことも目に入らないほど自分の存在が大きいのだとは正木は思いもしない。  そうこうしているうちに、若林と夕夜は正木たちの前にやってきた。  夕夜はすぐに千代子に気がついて、一瞬何とも言えない困惑の表情を浮かべたが、若林はここまで自分を導いてきた夕夜に尊敬の眼差しを向けた。 「ほんとにおまえ、わかるんだなあ」  兄弟機の発する信号を感知できるようにしたのはまぎれもなくこの男なのだが、彼はうっかりそのことを忘れてしまったらしい。 「あら、久しぶりね」  皮肉たっぷりに千代子が若林に声をかける。  それで初めて若林は千代子の存在が目に入ったようで、派手なリアクションとともにすっとんきょうな声を上げた。 「ええっ! 呉さんっ?」  ――間抜けである。 「話は正木から聞いたわよ。今日もまた〝飛び入り〟で出るんですってね。楽しみだわぁ。あんた、すっかりここにはまっちゃったんじゃないのぉ?」  口元を手で隠しながら、三日月目で千代子が笑う。  若林は返答に困り、人差指で頬を掻いた。  昔から正木とは違った意味でこの女は苦手である。学生時代、正木と千代子はしょっちゅう一緒にいて、だから二人は周囲には恋人同士のように思われていたのだが、正木によると〝悪友〟で、そういう関係ではなかったそうである。  だが、正木はそのつもりでも、この女はそうではなかったのではないか。だから先月、あんなロボット勝負など挑んできたのではないか。  しかし、その一方で、何であんなに露骨に正木を避けるのよと自分に突っかかってきたこともあるのだ。さすが正木の〝悪友〟。その言動は謎と矛盾に満ちている。 「若林よ」  今まで何事か考えこんでいるようだった正木が、突然、若林を呼んだ。 「悪いが、しばらく控室使わせてくれ。ちょっと考え事したい。カードキー貸して」 「え、あ、ああ……」  言われるまま、若林は自分の胸ポケットから控室のカードキーを取り出して、何だか沈んだ顔をしている正木に手渡した。 「ええと……四〇九号室ね。けっこう遠いなあ。んじゃあ、昼時には戻るからさ」 「おい、考え事って……おまえ、具合でも悪いんじゃないのか?」  さすがに心配になって、若林は正木を引き止めた。  入場前はあれほど楽しそうな様子だったのに、今はすっかり元気がなくなってしまっている。いくら若林が〝鈍感〟でも、それくらいのことはわかる。 「別に何でもないよ。気にすんな」  そう言うわりには疲れたように笑って、正木は出入口の扉に向かって歩いていった。 「私も行く!」  美奈が叫んで、正木の後に続く。  夕夜も気遣わしげな表情をして、追っていきたいようなそぶりをしていたので、若林はその耳元に小声で囁いた。 「おまえも行ってやれ。心配だから」  夕夜は驚いたように若林を見た。 「いいんですか?」 「かまわないよ。美奈一人じゃ心許ない」  夕夜はくすっと笑うと、大丈夫そうだったら早めに戻りますと言い、早足で二人の後を追っていった。 「いつ見ても、仲がいいわよね、あんたたちは」  その様子を黙って見ていた千代子が嫌味ったらしく言う。 「仲がいいって……」  そこで初めて若林は自ら苦手な千代子と二人きりになる状況を作り出してしまったことに気がついた。夕夜が『いいんですか?』と言ったのはそのせいだったのか!  ――やはり、若林は間抜けである。 「私はもうあんたには関わりたくないんだけど、これ以上イラつかされたくないから、この際、はっきり言わせてもらうわ」  両腕を組んで高飛車に千代子は言った。 「このコンテストが終わったら、今度こそ正木はあんたの前からいなくなるわよ?」 「……え?」  何を言われるかとびくついていた若林は、その予想もしていなかった内容に、しばらく理解が追いついていかなかった。 「まさかあんた、いつまでも正木が自分ちにいるなんて思ってたんじゃないでしょうね? 今まで正木に何にも言ってやんなかったくせに。今回何のために勝負するかも正木に言わなかったんでしょ? あのね、正木はもうとっくの昔にウォーンライトから話は全部聞いてるの。でも、きっと正木のことだから、そのことあんたに話してないわね。ほーんと、あんたたちは似た者同士だわ。都合の悪い話はしないで済まそうとするの。  だけどね。いちばん悪いのは、あんたよ、若林。始めたのはあんたのほうなのに、あんたはとうとう十七年間、逃げ回ってただけだったわ。あんたに振り回される正木の身にもなってみて。いいかげん、正木を解放してやってよ。〝友人〟だと思っているなら、正直にそう言えばいいわ。でも、そう言われたら、正木はあんたの前から姿を消す。いずれにしろ、このまま何も言わなかったら、正木は確実にあんたの前からいなくなるわ。おそらく永遠に。うぬぼれないことね。あんた以外にも男は星の数ほどいるのよ」 「――ごめん!」  若林は考えるのをやめた。千代子の横をすり抜けるようにして、出入口の扉に向かって走った。  なぜ千代子がそんなことまで知っているのかなんて、今はどうでもいいことだ。あとで時間があるときに考えればいい。今はとにかく正木。正木のところに行かなくては。何を言うかは行ってから考えればいい。とにかく急げ! 「はたして〝二度目〟はあるかしらね」  若林を見送って、千代子は口に手をやり、フフフと笑った。  だが、すぐにそれは自嘲めいた笑みになった。 「ごめんね、ヘンリー」  帽子を直しながら呟く。 「結局、私は正木の〝親友〟なのよ」  ***  一方。  正木は落ちこんでいた。  それはもう、可愛い〝娘〟の美奈にも、最終兵器の夕夜にも、手がつけられないほど、深く深く落ちこんでいた。  控室は八畳ほどの広さがあり、部屋の奧には作業台がわりのベッド、中央には丸テーブルが一つ置かれていた。正木はそこでずっと頭を抱えこみつづけていて、その向かいで夕夜と美奈は固唾を呑んで彼を見守っているのだった。 (あきらめるしかない)  それが十七年にもわたる恋慕の末に出した結論だった。  しかし、そう簡単にあきらめられるものならば、とうの昔にそうしていたのだ。あきらめきれなかったから十七年間も思いつづけてきたのだ。  でも、若林にはその気がないとわかった以上、一緒にいたって苦しいだけじゃないか。生殺しじゃないか。やっぱり自分と若林の間には縁なんてなかったのだ。あると思っていたのは単なる思いこみだったのだ。  それでもいいさ。十七年分の思い出はできたから。これからの生涯は、それを抱えてひっそり生きていく。そして遠くから若林の幸福を祈って――いられるか、べらぼうめ! 若林が自分以外の誰かと幸福になるなんて、考えただけでも発狂しそうになる。結婚式でも挙げようものなら、爆弾抱えて乱入して、みんなもろとも吹っ飛ばしてやる。……いいなあ、それ。  落ちこむあまり、正木の思考は危険な方向へと走りはじめた。  頭を抱えながらふくみ笑いを漏らす正木に、夕夜と美奈は思わず抱きあった。  この人、もうイッちゃってるかもしれない……  そのとき、控室のドアが性急にノックされた。頭の中だけ過激派している正木以外はびくりと体を震わせたが、夕夜はなぜインターホンを使わないのだろうかと不審に思いつつも、この緊迫した空気から少しでも逃れるため、一人テーブルを離れてドアの前に立った。 「少々お待ちください」  そう声をかけてロックを解除した、とそれを待ちかねたようにドアが勢いよく開かれる。 「正木ィーッ!」  エレベーターを使えばいいものを、焦るあまり一階から四階まで駆け上がってきた若林は、ぜいぜい息を切らせながら叫んだ。  これにはさすがに正木も正気に返ったようで、目を見張って若林を見ている。  このときまで、実は若林は言うべきことは何一つ考えてこなかった。  正木の顔を見れば何とかなると思っていたのだが、実際、正木の顔を見た瞬間、頭の中が真っ白になってしまった。  しかし、何か言わなければ。言わなければ正木は行ってしまう。  自分の望みは何だ? そうだ、正木をどこへも行かせたくない。行かせないためには何と言うのが得策だ?  ここで若林の中で驚くべき短絡が起こった。それとも、すでにそういう回路ができていたのか。とにかく、彼は思いついたその言葉をそのまま口にした。 「俺と結婚してくれッ!」 「うん」  ――〇・一秒。
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